ナッキーであるとはどのようなことか。

ナッキー中島早貴)が好きなんだが、ナッキーってなんなんだかいまいちはっきりしないのではっきりさせたいと思う。
ナッキーとはなにか。


ナッキーはおでこではない。
ナッキーはあの七三みたいな髪形がいいのである。それは絶対。
春ツアーではおでこを出していたのだが、一気にナッキー度が減退した。いかんのですよ。


ナッキーはへそではない。
辻はへそであった。これは間違いない。
同様の意味で、ナッキーはへそではない。間違いない。
ナッキーはへそですらないのだから、当然胸や尻ではない。
ナッキーには是非写真集を出してもらいたい。水着抜きの。
どこかのページでは、ブースカと並んだ写真を1枚お願いしたい。


ナッキーはとりあえず顔である。
ナッキーは美しい。間違いない。
ナッキーはそれでいてかわいい。これも間違いない。
僕を悩ませるのはまさにここである。
笑ったときに口の両脇にできるしわが、ナッキーを老け顔の印象にする。
若いのか若くないのか分からなくさせる。
それが僕にとっての「ズレ」であり、違和感であり、つっこみどころである。ナッキーにおけるハロプロアイデンティティはここに表れる。


ナッキーは声である。
ナッキーはナレーションやら司会に使われる。
声が魅力である。ひとりでハモったような声を出す。
℃-uteの、中島早貴です!」という時には、「の!」「です!」と句の末尾にアクセントが置かれる。僕はこれを直してほしいと思う。一生懸命しゃべろうとするあまり、力みが見られてかわいくなくなってしまうのですよ。
そういう点では、あれもしかして、ナッキーは矢口なのか?司会をして、「勘違いした演劇部」のようにしゃべり、ちょっと頭がよさそうにみえる(決して頭がいいというわけではない)。


ナッキーは飛べない鳥である。
ハロ紺の感想でも書いたが、ナッキーは飛べない鳥が必死で羽をばたつかせている、そんな感じ。いつまでも飛べないでいればいいのに、ってのは、僕の暴力性。
こう見たときに、ナッキーに対しての上から下目線ってのは決定的である。どこが起源なのか僕は知らないが、「nkskのくせに!」というフレーズも、それを如実に示している。
中島早貴中島早貴として、つまりキッズというまとまりではないものとして初めて見たのは、オールスターズが出た「うたばん」の時だ。保田をいじるためだけに利用されたいたいけな少女。その記憶がある限り、この上から下目線が消えることはないように思う。だけれども、「nkskのくせに!」と言う時には、そんな少女が我々を魅了するまでに成長したことへの畏敬の念も同時に含まれていると考えたい。
僕はナッキーがいつまでも飛べない鳥であってほしいとわがままにも望むのだが、だからといって鳥の翼をもぎ取ってしまおうとまでは思わないのだ。


ナッキーの身体性の希薄さ
正直、僕はナッキーと握手をして、特に感慨がない。ナッキーはとても美しかったのだが、それゆえに僕はコミュニケーションへの欲望が湧かない。
さらに言えば、僕はナッキーに触りたいと思わない。もともとナッキーにはへそも胸も尻も「ない」のだから触りようがないのだが、手にすら、触りたいと思わない。握手会前はいろいろとドキドキもしたが、終わってみれば、ナッキーとの握手の記憶が薄い。それは頭が真っ白になったということでもないのだ。
ナッキーの身体性は希薄だ。握手してからそう思った。


ナッキーは萌えであるか。
ナッキーに対しての感情が萌えであるかどうかは疑わしい。
ナッキーは、萌えであるためには美しすぎるような気がするのだ。
ナッキーの身体性は希薄であるが、空虚であるとは言いがたい。
脳みそもちゃんと入っていそうなのだ。
となると、嗣永のように、自ら萌えをプロデュースする方向を考えればよいか。
確かに、ポケモームービーで見るナッキーの動画は、コメントの最後、必ず一生懸命練習したであろう決まった笑顔をつくるナッキーを見ることができる。だが、その一生懸命さが見えるようではプロではないんだなあ。


というわけで、ナッキーってよく分かんない。よく分かんないから、推します。適当にいろいろ書いていたら、辻や矢口のイメージも投影されているような気がしましたが、それでもよく分かんないです。分かるようになったら、たぶんおしまいです。だから、分かんないでいいです。でも分かるように語ります。それがヲタということで、万事OKです。