アロハロ!矢口真里・辻希美DVD

矢口真里辻希美がハワイの旅を満喫!矢口真里辻希美、二人の“アロハロDVD”映像作品。水着シーンも含む、楽しいハワイの旅の記録です。』

ということで、ジャケ写が発表されてうきうきわくわくしてきましたが。
…なんかやぐが脇役ですね。仕方がないか。

虚構の存在であれば、線をすっと引くだけで谷間ができてしまうわけですが、のんちゃんの、人間で言うと胸のあたりに位置するところの影というのは多分そういった類のものなんでしょう。「谷間的なもの」なんでしょう。
のんちゃんってのがそもそも現実には「いなくて」、そのいない存在の、無いはずの胸によって創られるところの、無(谷間)ってのは、無に無を重ねてなんだかムニムニしそうなわけだが、再三言っているようにやはり無いのである。何言ってんだ俺。…というわけで僕は辻の谷間を見るにつけ考え込んでしまう癖がある。少なくともそれはなんらかポジティブに捉えられるものではない。性的な記号なんて、僕はハロプロに積極的に求めないし、その中でも辻には求めない。辻が水着になるのは大いに結構だが、それは性的な差異を度外視した何かを愛でる対象としてあるのだ。
こういうことを私的でありながらどこまでも公的なネット空間で吐き出すこともどうかと思うが、正直僕は辻には性殖器が存在しない、と思っている。それがどういう意味だかよく分からないが、それを補完する器官として「へそ」がある気がするんだな。もろちん、生殖機能はない。
生身の女性への欲望が性殖器へ向けられることで一応の充足を見るように、
辻への欲望(萌え)が「へそ」に収斂していくような、そんな気がする。
で、大きな差異は、「へそ」は所詮何の機能も果たさないので、欲望を満たすことがないし、子供も何も生み出す可能性がそもそもないということ。
そんな、はじめから充足が不可能であるものに対する欲望、不可能であると分かっている欲望、これって自分の萌えというイメージの一つのかたちなのである。
「へそ」って「無」なんです。人間の身体の中でへそは無の象徴です。辻がへそをアピールポイントにしているのは偶然ではない。結局、辻が無なんです。無への欲望が萌えです。それが自分の妄想なのか、「他者」の到来なのか。
はじめから充足が不可能であるものを充足するためにはどうもがけばいいのか。辻とか「へそ」みたいな「無」を手に入れたかったら、自分も無になるか、自分が辻になるかのどっちかしかない。そうなるためには、ライブという空間は重要だったりする。現に2003年に自分は、松浦紺で「ステージ上と今ここにいる自分、どっちが松浦だっけ?」という体験をした。そういう地平に立てなければ「萌え」は成就しない、それは一種の宗教体験である、って、「萌え」を限定しすぎかな。

ヒントとして、大澤真幸の「恋愛の不可能性について」を読みます。