宗教vsアイドル

神殿

奈良に行って来た。
古寺巡礼をする気にはならなかったので、ひさびさ、
天理市に行って来ました。
日本最大の宗教都市と言ってよいだろう天理市
駅から長く延びるアーケードの先に神殿がある。
特に行事があるわけでもないが、神殿には多くの参拝者が訪れていた。自分も中に入って甘露台に向かって形ばかりながらお参り。
女子中学生なども一生懸命「あしきをはろうて」と唱えている。

やはりこの神殿のでかさである。
実在感。しっかりがっしりあるな。歴史とか伝統とか。信仰の中心として、安心感を与える感じ。
僕はここで、「とりかえしのつかない宗教」という語を頭に思い浮かべた。もちろん悪い意味じゃあない。
信仰ってのは、信仰であるだけに、ちゃんと信じられるものを信じるのだ。だから信じられるものにはそれ相応の確実さがなきゃいけない。例えばこの神殿がそうだ。それまでみんなが信じてきたという伝統・慣習もそうだ。
そういう、引っ込みがつかないほど固まってしまっている、ということが重要なのだ。信じた以上戻るべきじゃない。信じてから元に戻れない、という引っ込みのつかなさ、とりかえしのつかなさがあってこそしっかり信じられる。

神殿に入るのに靴を脱ぐのだが、神殿から出て靴を履くときに信者の方が靴べらを差し出してくれる。いろんなところに案内してくれる人もいるし、庭園・公園でもゴミがほとんど落ちていない。信者のボランティアによって街がとても和やかで穏やかな雰囲気だ。天理のはっぴも街の中によく馴染む。
一応新宗教とは言え、歴史あるこの共同体の確かさに感心した。もともと宗教ってちゃんとこういう機能を持っているはずなのになあ、今の日本じゃ、わざわざ探さないと見つからないのだ。


さて、続いて奈良だ。
一転変わってアイドルにがっつく番だ。
まったくもって雰囲気が違う信仰の場だ。なら100年会館、なかなか趣のある建物です。しかしながらゴミの散乱。ヲタがモラルを獲得するにはあまりに歴史がない。
今日は2列・4列です。大枚はたいてます。…引っ込みがつかないほど。
辻が腰を痛めているようである。サポーターを巻いている。へそ出しの衣装でもへそが見えないというのがなんだかおかしい。それにしても、辻が腰を痛める?虚構の存在なのに?なんともおかしな話だ。ただ、たまにとんとん腰を叩いていた辻には確かに辻性が感じられた。
ところで、ダウンタウンDXの件から、最近、『辻はお菓子である』という定義も可能なんじゃないか、とか思っちゃうのだ。辻って、(エロい意味じゃなくて、)食べたら甘いんじゃないかって思える存在だよな。お菓子でできてるんじゃないですか、辻って。ああ、イメージ的にはぴったりです。腰のサポーターも、バウムクーヘンの外側を取り巻いている甘いコーティングじゃないのか。

位置的には妄想にたっぷり浸れる席であった。目線が合う。
MCも楽しい。3階の奥の方のちょうちんまでちゃんと見えている、と言い、「気を抜かないでくださいねー」という、ヲタの立場をよくわきまえた発言、大好きです。
昼紺最後、はける前に「ニャー」のレスをもらうことができました。レスって、やっぱり瞬時でもアイドルを独り占めできる喜びなのかなあ。レスに狂喜した後って、残念ながら記憶が消し飛ぶことが多く、今回ももうどんなだったかおぼろである。でもそのおぼろ感っていいんです。ふにゃふにゃで、拗音なしにしゃべれない感じ。
夜紺、4列でも遠いような近いような気がしたけれども、最後まで飛びきり楽しかった。芸人のネタをやる辻って、ほんと何者なんだろうと思う。辻はその定義できなさをこそ愛でるものなんだろう。夜紺の最後の方、サポーターをとって、ちゃんとへそ出しで最後には腹の肉をつまんでいました。バウムクーヘンの外側は食べられちゃったようです。リボンも、飴かなんかなんだろうな。

辻はお菓子である。
とろけるような甘い時間をありがとう。