中野ハロ紺2日目

最近みかんゼリーが冷蔵庫に貯まってきた斧屋ですこんばんは。


朝は8列最端通路席。後ろを気にせず踊ったりスケブかざしたり。
以下思ったことを箇条書きで。
・嗣永の衣装がカエルみたい、というか、フィン(足ひれ)はいた人みたいで、パタパタしている感じがよい。
・舞美はなんであんなにたのしそうなんだろう、という感想は梨華ちゃんを見た時と一緒だ。
・セクシーボーイの娘。さんたちの手の振りが優雅な感じだった。
・「ロボキッス」での道重と菅谷は、道重が加護役、菅谷が辻役で、キャラ上これは適切なのだ。道重が腹黒い感じで、菅谷の方が中身が無い感じがよい。


さて、「チャンス!」だが、ライブで曲途中で衣装が変わるのを見ると、これがやっぱり「アイドル」から「歌手」になっていくことを歌っているように思える。「どれだけ変わっても 変わらず見ていてね キラキラのその先の道を歩くわ あなたとね」って。是非松浦亜弥にこの歌を歌ってほしい。


昼はスルー。おみくじ気分でポスターと写真を買いましたが、亀井・リンリン、梅田・須藤という結果に…。亀井となっきぃをトレードすべく会場外をいろいろ見たけど、手に入らず。こういう場合、推しの交換価値を算定する行為を僕はしたくない。たとえ亀井となっきぃの交換価値比率がヲタ界隈で一般的に1対4くらいだったとしても、僕は亀井となっきぃの1対1交換を辞さない。すべてを一般的交換価値の元に収斂させてしまったらヲタはいけないのではと思う。そもそも中野チケへの金のつぎ込み方からして常軌を逸しているのだ。
夜は0列実質3列目右寄り。となりの方にポジションを協力いただき、なっきぃにひたすらがっついておりました。なっきぃは基本右寄りなので、終始近い位置で見る。がっついて終わりなので、特に書くこと無し。だけど書く。
なっきぃに限らず、近いときに一番見てしまうのはへそである。へそが露わだからどうしても見てしまうし、顔はもちろん見るのだが顔以外で見るとなると、最も身体を感じさせる部分、肉感を感じる部分となるとお腹なのだ。胸や尻は見ない。身体性というのは僕にとっては必ずしも性的なものではない。なっきぃのお尻や胸は小さくなくてはいけないと思う。そこに視線がとどまるような場所でなくていい。育っちゃうと、なんかさびしい。それは僕が同化する可能性を失うからだろうか、それとも娘の成長を複雑な心境で見つめる親のようなものだろうか。ともかくそこになっきぃはいた。
テレビや動画が映し出す彼女達は、均質なきれいな肌をしているけれど、至近距離で見る彼女達の肌はそうではない。お腹もそうだし、ひざとかひじとか、特に関節部分だったり、脚はいろいろキズもあったりする。なっきぃのひざの色合いを少し覚えている。それは均質なアニメの、メディア上のそれじゃない。彼女達は確かにいる。身体性ってのは存在の重みがあるのだ。身体性=知覚経験+存在の重み、かなあ。
僕は一生懸命に口をいつも開いているなっきぃが好きだ。中学生くらいの頃、僕は全てのことを論理的に解明したくて、だから、がんばれと言われてがんばるみたいな非論理的なたわ言に付き合っていられなかった。だけど今、僕はがんばっている人間の存在によって、自分ががんばらなければいけないと思う。そういう力もまた人間の力なのだと今気づく。
ライブの最後に僕は、これは妄想ではないと信じて今年を過ごすけれども、なっきぃから1、2度レスを頂戴した。なっきぃがこのどうしようもないダメ人間のために零コンマ何秒割いてくれましたよ。そんなもんが「仙豆」みたいに瀕死の人間のエネルギーになるんだから人間はたわいもない、だけどそのすばらしさを僕はかみ締めていきたいとも思う。
とりあえず、なっきぃ、愛してます。どのように愛しているかは、知りません。