①AKB48「悪魔の握手会」

話題のAKB48「悪魔の握手会」動画を今さら見る。
これが僕にとって不快なのは、AKB48がファンをバカにしている構図だからではない。
AKBヲタはAKB48というアイドル現象の一部なのだから、それが自虐と言われようがAKBヲタはそれすらも内輪ネタとして消費するだろう。それについてこれないヲタはもはや外部であって、要はAKBは外部からの批判を内部を強化するためのネタとして利用する、悪いたとえをするなら終末系の宗教の構造に近い。もちろんそういう意味でシステムとして不安定であるということは問題だと思うが、問題だと思う人間はヲタではないからAKBというアイドルシステムにとっては問題ではないのである。
そんなことより僕をイラつかせるのは、こうして握手会の「裏」を見せる動画が、結局のところハロプロを相対化してしまうからである。(実際AKBとハローは共通する部分が多いからこそ相対化される。握手会にしても、握手のためにCDを買わせることにしても。)当然件の動画は絶対の「真実」でもなんでもない。のだが、あたかもAKB以外の他のアイドルの現場はこうした「真実」を隠蔽してきれいごととして握手会をやっているのではないか、という批判として機能してしまう可能性が腹立たしいのだ。(はじめてお絵かきしてみた↓)



それが本意でないとしても、「他のアイドル握手会は、経済的なファンへの負担や、高速で回す握手会(「地獄絵巻」)への罪悪感もなく、ファンを搾取している。我々AKB48はそうしたことに自覚的であるだけまだマシである」というような外部に対しての挑戦的な姿勢に見える。で、これがアイドル産業全体を活性化するような挑発であればいいのだが、そうはどうしても思えないのだ。ところでこうした「自分だけは気づいている」方式で自分の立ち位置を正当化する言説はオタクの世界ではよくある話だが、そんなものは全く無意味であることは例えばニコニコ動画のコメントを見ているとよく分かる。メタ化してより高みから語るということの限界。(まあ僕のこのブログもそういう批判に晒されそうな部分は多々あるのだろうが…)
もちろんハロプロだって、「ASAYAN」時代の娘。や、デビュー当時のBerryz工房のレッスンを流した深夜番組など、「裏」を見せることで人気を生んできた、という点で「メタ化」の恩恵を受けている。けれども、じゃあ「表」がダメで、「裏」こそが善なのだ、という売り方であったかというとそうではない。一方今回のAKB48は、「悪魔の握手会」というように、表の世界を悪である(かのように)表現してしまっている。AKBヲタは好意的に消費できるのかもしれないが、このような、「裏にあるものこそが真実である」という方向性に持っていく恐れのある表現を僕は好きではない。少なくともアイドルと接するとき、そこに裏の読み込みばかりをする人間はいないだろう。その表象から得られる「真実」もある。
特にアイドルが嫌いな人には、表象から「真実」を受け取る、ということへのアレルギーがあるように思える(ニコ動のアイドル動画のコメントには必ずそうしたものがある)。過度に情報が氾濫する時代は、確かに騙されることへの敏感さが求められるが、じゃあ逆に、なんにでも裏があって、それを知ったものが勝ちである、というような無限のメタ化競争も不毛である。それは裏にあるものをこそ信じるというような、逆のドグマに陥る危険を孕んでいる。「アイドルは全部演技をしているのだ、信用ならん」と言う人は、果たしてドラマを見ても涙を流すまい、という人なのか。アイドルばかりを信じてはいけないものの象徴のように語る人は、自分もまたペルソナをかぶって演技して生きているということにすら気づいていないのだろうか、ということを感じることもある。
僕は決してAKB48の現象全体が嫌いというわけではないのだが、他のアイドルにも脅威を与えるような、持続可能性をせばめるやり方はしないでほしいという思いはある。アイドルは「夢を売る」とよく言われる。「夢」は抽象語である。はっきりしない、距離をもって感じさせる語である。夢はかなえたいが、夢を簡単に「CD」だとか、「握手」だとか、簡単に具体物にすりかえないでほしい。なんでもすぐ分かった気にさせないでほしいのだ。要はやはり、僕はAKBは即物的すぎる気がして嫌なのだ。これもまた誤解かもしれないし、ハロプロの、エグゼクティブ会員制度や℃-uteの握手会だって同様の批判をできる。そこで比較論をするのも嫌なのだが、「夢」という言葉が持つイメージの広がりだったり、物語だったりを、僕はハロプロの方に感じるというだけだ。