横浜美術館「ゴス展」を見る。

まず、「ゴス」の意味がわからない。
6人の芸術家の作品が展示してあるのだけれども、そこから抽出できるのは、生きるということに付随する生々しさ、とでも言うようなもので、それをゴスと呼んでいいのだろうか。僕はその程度に捉える。これは昔からの僕の問題意識で言えば、人間の「狂い」の側面に焦点を当てることであるが、ここまで抽象化しちゃったら、それは「芸術」という語になってしまうんではないのか。ともかく、「ゴス」の意味はわからない。
生々しさには死という観念が紛れ込んでくる。生を見つめようとすればそこから逃れられない。だからゴス展にはドクロやら傷やら血やらといったイメージを伴う作品が多くある。
ところで、リッキー・スワローの寝袋やらステレオといった彫刻作品やら、2人の芸術家による赤ん坊を映し出す映像作品を見て思うのは、芸術作品というものは普遍的に何かを伝えようという気はあまりない代物だということで、正直言ってそこから何も感じられない作品は多い。美術館にこうして置かれているからこその芸術作品なんだよなあということも改めて思う(もちろん便器を置けばそれが芸術作品になるのだ)。こちらの読み込みを待っているという点では、(当たり前だが)芸術作品は我々が参与してこそ価値を持つものなのだ。それでもってさらに面白いと思うのは、美術館というものに対して、クレームをつけるという可能性に思いをはせたときである。美術館に、こんなわけのわからないものを出展しやがって、というクレームは絶対に届かないよな、と思う。圧倒的に観客が不利である。理解できないのは観客の芸術を見る目がない、ということにしかならないのだ。この厳然たる権力関係はいったい何なんだろう。映像作品の空間から出てきた人々は、一様に平板な表情なのだが、それは「ふーん」としか言いようがないからである。金を払っている以上「つまらない」とか「わからない」と言ったら負けのような気がする。僕は僕でそれなりの解釈を試みはしたが、何か感動を得るでもなく、とりたてて不快になるでもなく、釈然としないまま数分間の映像を見ているだけである。やっぱり、「ふーん」である。
それに比べてはっきりとわかりやすいのは吉永マサユキの写真展であった。「ゴス」「ゴスロリ」の写真が並ぶ。下妻物語に象徴的なロリータファッションと、猟奇的な趣味の黒を基調としたファッションに共通の精神があるのかよくわからんが、どちらにしても自分じゃない何かになろうとしている意思だけは感じる。舌の先を裂いてしまっている人、体中のピアスやら入れ墨やら、そうした不可逆なまでに身体改造をしてしまう精神への興味が僕にはある。「甘ロリ」と言われるような、自分をほぼ人形化しているような衣装、あるいは、口の部分から管が何本も出ているグロテスクな格好。人形化にせよ、機械化にせよ、自分がなれないものへの欲動があるようだ。死への欲望?確かに、ゴスロリ衣装の女性の腕には幾重にも自傷の痕が残っている。
自分はと言えば、どう見られるか、自分の身体がどうであるかということに関してまったく無頓着である。僕が典型的なオタクを体現しているとは思わないが、オタクと言われる人間は、基本的には精神のほうを虚構へ飛ばしてしまうように思う。俗に言えば妄想してナンボということ。で、どんな妄想をするかと言えば、不可能なことへの欲望を抱くのである。アイドルとの恋愛だとか、時にはアイドルそのものになりたい、とか。重要なことは、ジャニーズになりたいのではない、ということだ。もしかしたらなれるかもしれない、ただそれには現実的な努力が求められる、という類のものではなく、虚構的な努力が求められるもの、自分からの飛躍という類のもの。
ゴスにおいては、身体への過剰な関心から、身体改造へ、という流れ。オタクにおいては、身体への無関心から、妄想へ、という流れ。これはどこかでid:Imamu氏が指摘したことだと思うが、どちらにしても社会的な諸関係の中で漸進的に成長していくという、社会からしたら理想的なイメージの自己実現とは一線を画した、飛躍を伴う自己実現の方法が一般化している、ということ。ただアプローチの仕方が対照的であるというだけだ。
じゃあそうした試みを、現実逃避であると切って捨てられるかどうかはよくわからない。身体改造をせざるをえない切実さは僕には想像もつかないけれど、それぞれがべったりとした現実から距離をとって、現実に押しつぶされないための緩衝材を作りながら生きているのだとしたら、そういう時代なのだということであろうと思う。で、僕もかわいい女の子になれるもんならなってみたいとも思っている。