もろちん!

飲まずに飲まれた

定価の2倍以上の金を払って3公演に行ってきたわけだが、やはりいいなあと思う。

①11:00開演 シニアグラフィティ第2回公演「時の流れに身をまかせ
方向音痴な自分だが、夜行バスの出発地として何回かは行ったことのある場所の近くだったため、スペース107の場所は比較的容易に見つけられた。外でヲタがたまってたが、さすがに200人も入らないような小スペースだけあって、数は少ない。
地下2階の劇場へ下りる。物販のスペース(ロビー)がせまい。パンフレットを買う気もしなかったので、そのまま席のほうへ。前から平坦な1〜5列、その後ろに段差のついたA〜F列。むしろ一番見にくいのは5列かもしれない。今公演の席はC列。見やすくてよい。
定刻に開演。あらすじは、大衆演劇の座長である父と絶縁してラジオのDJになっていた娘が自分の誤解に気づき、劇団に戻ってくるという感じ。
正直芝居そのものには何の期待もしないで行ったが、面白かったし、泣いた。
ここでやはり考えてしまう。芝居に感動して起こる感情の起伏(笑ったり泣いたり)っていう意味では、「こっち」のほうがやはり、やはり上なんじゃないかと。繰り返し見たくなるのはどっちかって言われたら、「リボンの騎士」より「こっち」だろと。
リボンの騎士」は本当にすばらしい作品だったんだけれども、アイドルの真骨頂ではないのだと思う。「リボンの騎士」は演出家や各スタッフの尽力によって固有の作品へと仕上げられることによって、各公演でのアドリブの要素は相当限定されてしまう。だから、毎回ほぼ一緒の作品として表現されることになる。これはこれで悪いことではない。うまいラーメン屋がいつも変わらない味でいるのと同じで、常に変わらないという「作品としての権威」をまとっている。
しかしそれは、「アイドルという権威」ではない。僕は「リボンの騎士」を4回見に行ったが、それはキャストが違うという意味で、同じ公演ではなかった。だからあと2回くらい行ってたら、飽きてしまっていたかもしれない。毎回の公演が微細なところで違うことは認めるけれども、相対的に言えば反復可能性がある公演だと言ってしまいたい。
それに対し、「シニアグラフィティ」のほうは行けるなら何度でも行っただろうと思う。なぜなら、そこには一回性、公演がそれぞれに違うという反復不可能性があったから。前の日記で書いたことだが、僕等ヲタは、「作品」という芸術を見たいのではなく、「アイドル」という「芸術」を見たいのだ。だから、「シニアグラフィティ」のほうが「アイドル」を見られるという点で勝る。
(それにしても、どうなんだろう。余談だが、本格的な演劇の世界も、それぞれの公演ごとにアドリブ的に行われる要素が多いほうが一回性、唯一性という権威があるということで、芸術として優れているのではないかと思うのだが。例えば、「ガラスの仮面」の「奇跡の人」の北島マヤのように、毎回アドリブで役者同士が舞台上で戦いあう、というほうが明らかにその作品の権威は高まるだろう。アドリブの余地がないほど練りこまれた芝居と、毎回違った唯一性を持つ芝居、どっちが、ってことは主義によるのかな。うまくバランスが取れていることがベストなのかもしれない。)
辻希美演じるアイドル辻村のぞみ。アイドルという「芸術」をそのまま見ることができる。辻を台本どおりに動かしちゃもったいないですよ。奔放にね、好き勝手動かしたら一番面白いことになるんだから。案の定、相田翔子との掛け合いがとても心地よい。プロデューサーが「モチロン」を「モロチン」というのに合わせて、胸を張って「もろちん!」と言い放つ辻は、ぶりんこうんこの時代の辻と何一つ変わっちゃいない。「もろちん」って響きもなんかファンシーなものに変わってしまいますよ。
昨年キャラ&メルで出たような「萌え症状」がひさびさに出た。http://d.hatena.ne.jp/onoya/20050326/1111859603 ここで書いてますが、身動きできなくなる感じ。声が出ない。でも必死に叫んでみる。客観的に自分を見ることが不可能になる瞬間を持てるということ(=没入)って本当にヲタにとって大事だと思う。僕はその瞬間、いかように誰に馬鹿にされたとしても、幸せであったと言い切れる。
夏の扉」「UFO」「でっかい地球に愛がある」と都合3曲歌った辻だが、辻ってへそだな。いや、あんまり意味はない。あたりまえだが、辻のへそがなくなったら辻は辻じゃなくなっちゃうなあって思った。

②15:00開演 シニアグラフィティ第2回公演「時の流れに身をまかせ
朝公演が終わったのが13:30頃。しばらく時間があるので昼食もかねてカラオケで歌う。「笑っちゃおうよ BOYFRIEND」を歌ってみる。
さて、千秋楽である。どうやら全部行ったような強者もいたようだが、確かに行って後悔はしないだろうと思う。
開演前の「アンケート」で、7割くらいがリピーターという驚愕の事実が発覚。役者さんもやりづらいようです。でものんちゃんは好き勝手やるんだろーな。最前列は高山厳のファン、おばちゃんばかり。
昼は4列だったので、身を乗り出してのんちゃんを観察してみる。…うーん、絶対的に辻だ。どうなんだろう、誰にも似ていないと思える。あれだけ数多いるタレントやらアイドルやらと比して、ここらへんのここあたりに分類できるよねって、つじを押し込めることができようか、いやできない、てな感じです。
相田翔子と辻の掛け合いはとてもよかった。楽しそうでよかった。
ところで、芝居の前半で大衆演劇でのおやま(=女形)の舞踊の場面があるが、ここで僕はどうしても「おかしさ」を感じてしまう。それというのは異文化に対する違和感というものなのだろうが、ヲタである自分が思うのもまた変だよなという苦笑いも同時に起こる。「なんでそんなものに夢中になってんの?」って言葉はヲタこそが引き受けるものであろうが、そんなヲタが伝統的な芸能を見たときにはおんなじことを他者に対して思ったりする。芸能だとか芸術ってものは、受容する側のリテラシーっていうのかな、受け入れる状態になっているってことが本当に必要なのだと感じた。歌舞伎とか狂言とか落語とか、そして大衆演劇とか、われわれ若者にはそういうものを受容するような可能性が相当に閉ざされているよなあ、と思う。中学とか高校で、そういうのを見に行く催しはあったけれども、生活の中にそれらがあるという時代ではないのだ。
千秋楽だから、何か特別なことがあるかと思ったけれども、特になんもなし。相田翔子が歌い終わった後にまたのんちゃんが出てくるんじゃないかと思ったけれども、おしまいでした。時計見たら、17:40をまわってますよ。メロ紺、18時からなのに。

メロン記念日 ライブハウスツアー2006 〜灼熱天国〜 18:00開演
…まったく間に合いません。計算では昼公演がもっと早く終わって、17:30の電車のはずだった。17:52までずれこんでしまったため、だいぶ投げやりな感じで会場に向かいました。そもそもシニアグラフィティの昼は行く気はなかったところを、むずむずして無理矢理突っ込んでしまったせいです。そう、のんちゃんのせい!
横浜駅に着いて、みなとみらい線に3分で乗り換えられるかとダッシュして時刻ぴったりに電車に飛び込んだら、逆方向に進みだしやがんの。みなとみらい線、全然定刻に来ないんですけどどうなってんでしょうか。隣駅、反町(たんまち)で降りてしばらく待つ。(たんまち、たんまち、…またちん!)とか、心んなかでさっきまでののんちゃんの余韻を楽しむ。
横浜BLITZに着いたのは、19:50ですよ。50分遅刻。
2階最後列通路だったのですぐに席には行けたけれども、すでにライブ中盤の柴田村田のMCまで進んじゃってました。村さんのしゃべり聞けただけでもよしとしよう。
メロ紺、「灼熱」の言葉が似合います。MC中にバンザイが起こるとか、あんまり見たことがない。横浜BLITZくらいの会場だと、多すぎず、少なすぎず、大勢なんだけど一体感がある観客の雰囲気を自分も感じられてとても心地よい。
「かわいい彼」でついOAD打ってしまいました、控えめに。メロ紺は狂喜乱舞するべき。だからライブハウスツアーってのは正解だな。ライブ後半の怒涛の展開には圧倒されそうに、なる前に跳躍、ひたすら跳躍。
最後の「スキップ!」。メロン記念日って幸せだと思う。そしてメロ紺を見ることができるというのも幸せ。そんな幸福感を感じられる曲である。ついついすいません、ハモりパートを歌ってしまいました。
メロン記念日って、ハロプロの中で唯一メンバーが全く変わらないでここまで来ているグループなんだよねえ。メロン一本で頑張っているヲタって幸せかもしれないね。メンバーが変わらないということにおける、「かけがえのなさ」っていう権威をまとってるから、メロン記念日ってファンの気持ちを離さないんじゃないかなあ。
ライブが終わり、メロン最高!コールが一段落した後で、FC継続手続きをして、外に出る(結局途中から入ったのでドリンクチケットを無駄にしてしまった。⇒画像)。醜いヲタがいっぱい外で着替えしてました。そういうのもまたいつもの風景で悪くはないです。22:00頃帰宅。疲れたが、完全にリフレッシュ。幸せなときって死にたくなる。このまま死んで悔いなしと思える。