1.労働 〜「情」を「理」で超えようとする〜

ところでぼくはサービス業で、接客業みたいなもので、人と話すことも結構多いわけだが、最近よく思うのだ。お客さんは決めてもらいたがっている。どうすべきか決めてほしがっている。自由という不自由を抱えて惑っている。
この世には類似の商品・サービスがあまりにも溢れている。それに対して、ぼくらは選択する自由を与えられている。しかし、それらを合理的に判断するための時間と、情報は、必ずしも与えられていない。自由という一見爽やかな抽象概念だけが与えられて、でも実際にあるのは常に自己責任を伴う際限のない選択機会の波状攻撃である。
自分が一応の合理的な判断を下して商品・サービスを選択できるものは限られている。例えば、ぼくは、数多いるアイドルから℃-uteを選択する理由を事細かに説明することができる。ただ、(最近なんかの本でも読んだが、)そういった形で、ある程度であれ合理的な判断をすることのできる分野は、一人の人間においてせいぜい2つ3つであるということだ。それ以外の分野に関しては、俄か勉強で不十分な情報・知識を引っさげて、明らかに情報格差のある状態で、顧客としてサービスの提供者と対峙しなくてはならなくなる。(もちろんさらに言うなら、自分の得意な分野でさえ、情報は無限にあるのだから、どこからが正確な判断、などということは全くできない。)
であるならば、多くの分野において不案内なままでなされる商品購入の判断は、常に飛躍を含むことになる。「……だから、Aという商品は他とは全く差異化される。よって私はAを購入する。」などと、誰が自信を持って言えるだろうか。我々は無限の商品を横並びにして比較検討する時間もなければ、比較検討して一つを選び出す絶対的な根拠も見出せないのだ。だから、むしろ我々は能動的な判断をしたいと思いながらも、結局なんらか受動的な仕方で商品を選んでしまう。テレビCMで広告をしていた商品Bと、していないCがあった場合、それが絶対的な信用の根拠でなくても、Bをつい選んでしまうといったように。そういう意味で、やはり広告というものは意味のあるものだと思う。
したがって、情報化社会の中で、様々な悪徳商法やビジネスの方法論が多くの人間に認識・了解されている時代に、我々はそれでも何かを信じたいし、道を示してくれる者を求めている。ともかく言えることは、顧客は信用できる人間(やらお店やら)を求めている、ということだ。一度それを見つけてしまえば、あとは思考を停止させて、それに委ねていればよい。すごく楽だ。いつも行くスーパーで買いものをすればいい。他の店で買おうか、どうしようか、考えて、比較して、判断することをそう何度もしたくないのだ。基本的にそんな瑣末なことに人は時間をかけたくない。
そんなわけで、ビジネスという、資本主義という「理」の世界に「情」が紛れ込むことになる。顧客は、合理的な判断をしようとあがいた結果、信じられるものに金を落とす、という「情」で動く。サービス・商品の提供者はその「情」をいかに効率よくコントロールできるだろうか、と「理」を研ぎ澄ませる。重要なことは、ここにおいて「顧客をうまくだましてお金を落とさせよう」というような、必ずしも悪のイメージを与えるようなモデルのみではなく、「どうやったらお客様が信頼してくれるだろうか」という善的なモデルもありうる、というよりは、この二者の区別が曖昧であるということだ。会社のマニュアルに沿って接客をする、それ自体は「理」によるものだが、それによって顧客の「情」が動かされ、それによって接客した側の「情」も動かされる、ということはままある。それによって、もともと「理」によって行われていた接客が、「情」によるもの、より自然な、「その接客者らしい接客」へと成長を遂げることがあろう。ここにおいて、「理」を「情」が超えていくという事態が起こる。ところが、そうした接客は模範となるべきものであるから、それがまたマニュアル化される。「情」がまた「理」によってコーティングされる。その循環。
…ぼくの感情労働者としての苦しみは、自分が本心で接客をしているのだろうか、という疑念が常につきまとうことだ。これは結局会社の利益のためのスマイルなのではないか。マニュアル化された接客に自分の身体が馴染んでくるにつれ、その接客が「自分」のものなのか「会社人」のものなのか判然としなくなってくる、いや初めから判然とはしていないはずなのだった。
歴然とした情報格差の中で、サービス提供者である自分は、顧客に対して、顧客が最終的には判断するにせよ、説明の段階では圧倒的な権力を行使しているように感じる。医者が、反論の余地のない形で薬を処方するように、ぼくは商品・サービスを勧めるのだ。もちろんそれが顧客の幸せである可能性もあるし、基本的によっぽどインチキな商売をしていない限り、そう信じて仕事をすることはできる。ここにおいてやはり、「信じる」という行為が起こるのだ。つまり、ぼくが労働者として、顧客に商品を勧めるとき、結局ぼくがまずその商品を信じていないといけない。もし信じていないとしたら、自分の信じていないものを客に勧めるわけだから、これは十分インチキと言ってよい。それは不誠実である。それはしたくない。
だから、筋道としては、ぼくが会社のサービス・商品を信じる→顧客に自分を信じさせる→顧客がサービス・商品を間接的に信じる、というようになる。このように、「理」で「情」を覆いたくても、「情」があふれてくる。それがいいと言えばいいし(人間的と言えるだろう)、悪いと言えば悪い(人間性そのものが商品化されていると見ることもできる)。
ぼくは新宗教の布教のされかたを思ってしまうのだが、ぼくの印象では、書籍によって信仰がはじまることはあまりない。自分の信用する人間が信じているから信じる、のような、間接的な形での信仰というのがかなりある、という印象がある。あるいは、誘われていった集会がとても温かい雰囲気だった、というような、まず存在を認めてくれる、という体験があって、そのあと教えを聞いてそれを信じる、というように。結局人はあまり「理屈」で動かないということだ。


『「カリスマ美容師にはなれなかったけれど、近所のおばさんたちが〝やっぱりここで切ってもらうのが一番なのよね〟って言ってくれるのが最高の幸せです」と語る人に、いったい誰がどんな権利で「その幸せはインチキだ」などと言えるだろうか。』(「サブカル・ニッポンの新自由主義鈴木謙介著 P188〜189)
ぼくの労働は「理」で「情」を超えようとしている。だけれども、それをさらに「情」が超えようともする。そのせめぎあいだ。ぼくは世の中のほとんどの人間を好きではないけれども、もう慣れっこになった自分の営業スマイルを「嘘」だと言われたら、それはそれで釈然としないものだ。それによって顧客がいい気分になるのなら、それはそれでいいんじゃないのか、とも思うし、実際その笑顔に笑顔で返してくれる顧客と、仮面的なコミュニケーションを演じているだけ、などとはとても言えそうにない。そこで、ぼくはやっぱり何かを信じている。漠然と言えば、それは人間の可能性とでもいうべき怪しげな何かだ。


…全然アイドルのこと書いてませんが、前に書いたように、感情労働者はアイドルで、アイドルは感情労働者なのです。
(2.へつづく、たぶん。)