「プレゼント◆5-恋するオトコは眠れない-」感想

4月21日(月)プレゼント◆5の公演、「恋するオトコは眠れない」千秋楽公演を見てきた。遅ればせながら、感想を。
プレゼント◆5は、架空の男性アイドルグループ「プレゼント◆5」(プレ5)をモチーフとした舞台(アイドルステージ)である。テニミュを手掛けるネルケプランニングの舞台で、観客はほぼ女性である。テニミュと同様、この舞台はアイドル的な消費をされている(まさにアイドルそのものを扱っているので当然と言えば当然である)。
今回は、前回のシブゲキ!!から箱を紀伊国屋ホールへと移し、キャパを広げてきたのが一つポイントで、これは明らかにファンが増えた(他の舞台で役者のファンになった人がプレ5に流れてきた)ということを意味しているし、また増やしたいという主催者側の意向もあろう。いずれにしても、これまでのプレ5を観ていないファンが多く来場することになったわけだ。
公式ページでの「初めて観る方に! 舞台『プレゼント◆5』Q&Aコーナーはコチラ!」が面白い → http://yaplog.jp/present_5/archive/322。入門編と中級編を読めば、まずまず雰囲気がつかめると思う。そしてさらに、もう1クリックしないと進めない上級編のページを読むと、よりプレゼント◆5の肝が分かる。
「パンフやブログに出演者の名前がない」ということについて、この「アイドルステージ」は、作品内のアイドルたちが「現実に存在している」前提のもとでやっているとし、「大人の「ごっこ遊び」」を楽しむよう主催者は要請する。このように公式サイドが記載することは、ややもすると古参の(といってもプレ5については1年そこそこだが)ファンにとっては冗長で野暮な説明と感じられるかもしれない。しかし一方では、多くのファンを呼び込むにあたっての最低限の説明と言える。あとは現場に来て、現場の規範を肌で感じてもらう他ないのだ。

プレゼント◆5の舞台は、全体を貫く物語ありきというよりも、それぞれのキャラクターの描写と、キャラクター相互の関係性の描写に重きを置く(物語は至ってシンプルだ)。そのことで、ファンはBLにも似たカップリングの妄想を楽しんだり、あるいはデフォルメされたキャラクターに「ごっこ遊び」的に心酔していく。今回については、プレゼント◆5のリーダーであるヤマトと、ヤマトに思いを寄せるアキラの関係性が特に焦点化される。
プレゼント◆5が面白いのは、「アイドルステージ」と銘打ち、舞台内でのみ存在するはずのアイドルを描きながらも、それを「現実に存在している」前提のもとで行い、事実舞台外でも実在しているかのような演出を行っていることだ。実際にアイドルイベントを行ったこともあるし、ブログやtwitterでもプレゼント◆5のメンバーはメンバーとして登場したり、役者の「お友達」として、実在しているかのように扱われる。その虚実の見せ方のさじ加減が絶妙である。

今回の舞台は、プレゼント◆5のメンバー一人と、ライバルグループである「三日月」のメンバー一人が入れ替わる、というお話なのだが、入れ替わった状態で行われるライブステージが面白い。特に、普段キザなキャラクターである三日月の青羽要(あおばかなめ)(以下要様と表記)が、プレゼント◆5のメンバーに混じって見せる動きについ目が行ってしまった。三日月よりはコミカルな動きの多いプレゼント◆5のダンスをする要様が、他のメンバーの動きと違って少々ぎこちないようにも見え、それを見るにつけ、(要様は本当はこんなダンスは踊りたくないのではないだろうか)という想像を働かせる自分がいる。これはとても面白いことで、「プレゼント◆5の要様」と「本来の三日月メンバーとしての要様」という二つのレイヤーを自分が意識した途端、もう要様の中の人(=役者畠山遼)は完全に意識の外である。自分が「本当は」と想像するレイヤーまでが本来的には虚構のレイヤーである。だからあれ、何が本当だっけ、みたいになる。その錯綜する感じが結構心地よかったりするのだ。そうした現象が起こるのも、今回の舞台が、昨年の春から続く、世界観を同じくする一続きの舞台である、ということが大きい。あるキャラクターというものが、一定期間の一つの舞台で完結することなく、継続的に存在し続けることで、あたかも要様が常にいるように感じられ、結果「要様の素(す)」というような、本来問うことができないレイヤーが生じてくるのだ。
架空の存在でありながら、舞台で完結せず、他のメディアでも存在し、かつ時間的な継続性も持っているということが、プレゼント◆5や三日月のメンバーに独特のリアリティを付与している。そしてもちろん、アニメや漫画ではない、生身の身体がそこにある、ということが、そのリアリティを強固にする。圧倒的である。

批評誌『アイドル領域Vol.6』でも書いたが、プレゼント◆5では、観客もまた観客の演技を求められる。公演後半のライブパートは、オーディション番組におけるライブという位置づけであり、我々演劇を見ている観客は、同時に演劇内のオーディション番組の観客という役回りも引き受けることになる。それゆえに、観客は「アイドルのファン」としての演技を、演技であるがゆえに多少おおげさなまでに行うという印象である。「キャー」という歓声、推しの名前でアピールする色とりどりのうちわ。
一方で、それは観客に安心して没入させるよい口実でもある。「演技」と「没入」を矛盾するものと思ってはいけない。ファンとしての演技を、演劇作品側から要請されているからこそ、かえって安心して没入できるということがあるのだ。そこでは、初めは演技としてファンを演じていた振る舞いが、徐々に身体に馴染んでいって、心身ともに作品側が要請するファンになっていく、という過程もあるだろう。(余談だが、役者の側も次第にアイドルの演技に馴染んでいく、という過程をファンたちは観察してきている。そもそもプレゼント◆5の第一弾の公演は、売れないV系バンドがアイドルを目指すという話だったのだが、それはまだそんなに売れていない役者がアイドル演劇に出る、という「現実」の側面とも重ね合わせて鑑賞された。そしてブログやイベント等での役者の振舞いも、次第にアイドルらしく(アイドルになりきって振舞うように)なっていったようだ。)
また一方で、プレゼント◆5ではアンチとか「ガチ恋」といった、アイドルをめぐる問題を巧妙に回避できているように思う。たとえ嫌いなキャラクターがもしいたとしても、それは演技なのだから叩いても仕方がないし、批判はどちらかと言えば役者に対してではなく、キャラクター設定を含めた脚本のまずさといった作品の出来不出来を対象としたものとなるだろう。また「ガチ恋」について言えば、公式サイトにて「大人の「ごっこ遊び」」と言われているように、はじめから虚構の作品と言われているものに「本気」で恋することは起こりにくいと言えるだろう。ただしいま一度確認しておけば、ファンは「本気のファン」の「演技」をしているので、言動においては「ガチ恋」のファンとやっていることは変わらないのだ。

以上のことを外部の目線で観察したら、ずいぶんとめんどくさいことをしているように見えるかもしれない。たとえばジャニーズの若手グループのライブに行けば、もっとシンプルにファンが没入する様を見ることができるだろう。一方でプレゼント◆5の現場は、述べてきたように安心して没入するための仕掛けがあって、それによってファンが没入できるということになっている。濱野智史氏が言っていたように、それはいくぶん「こじらせた」ファンの形態と言えるかもしれない。ともあれその中に身を置けば、居心地のいい現場である。もうまもなく始まる、ライバルグループ三日月に焦点を当てた公演も楽しみに待ちたい。



アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.6

▲「プレゼント◆5」他、アイドルとファンの「演じる」ことについての論考を集めています。