書評:「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う

アイドル(論)にたずさわる全ての人に。


本当に、すばらしい本が出た、と思います。はじめにタイトルを見た時には、なんと硬いタイトルなのかと思いましたが、「混乱する「語り」を問う」、まさにその通りの本になっています。
世にあふれるアイドル語り。アイドル評論家や、アイドルに携わる仕事をしている人間ですら、「アイドル」という言葉の意味をもてあまし、人によって、あるいは同じ人でも時によりアイドルに別の意味を託してしまう。それらアイドルという語をめぐる齟齬、議論の難しさといったものがなぜ起きてしまうのか。生産的なアイドル語りのために、何を措いてもまずは、「アイドル」という言葉について整理をしていかなければならない。そんな問題意識に貫かれた本書は、アイドルに託された意味の時代時代の変遷もたどりながら、アイドルという語に安易におきまりの定義をしてしまうことなく、なぜアイドルを語ることが難しいのか、なぜアイドルという語の意味が定めがたいのかという「アイドルをめぐる困難」に徹底的に向き合った良書です。
もちろん筆者(斧屋)としては、編集を務めるアイドル批評誌「アイドル領域」が一貫して取り組んできたテーマが、ここに結実したという感慨もあります。香月孝史氏は「アイドル領域Vol.3」より、圧倒的なバランス感覚をもって、アイドルをめぐる困難さに最も誠実に丁寧に向き合い、明快な論理性によってアイドル現象を解きほぐしてきた、その意味で随一のアイドル論者であると言えるでしょう。ついつい手前味噌も含んでしまいましたが、この本は少なくともアイドルを論じたい者にとって、必読の書とならなくてはいけないと思います。
繰り返しますが、「アイドル」という言葉に、人々がいろいろな意味を託しているがために、そしてそれぞれの託した意味の違いにしばしば無自覚であるがゆえに、なかなかアイドル語りは生産的なものになっていない、という現状があります。たとえば、アイドルにはポピュラーさと、マニアックという矛盾する二つのイメージが付随しています。あるいは、アイドルという言葉に、「偶像」という意味や、「人気者」という意味や、歌って踊るというジャンルとしての(職業としての)アイドルという、相重なりながらも、同一ではない複数の意味が託されてしまっています。ジャンルとしてのアイドルを見ても、メジャーなアイドルから地下アイドル、地方アイドルといった様々なアイドルがいることにより、語りづらさが生じている側面もあります。香月氏は、「アイドル」というただひとつの、何ということのない誰でもが自然に使っている用語の整理という、実際に考えてみると大変に面倒で困難な作業を、明快な論理と、決して難解にならない平易な表現をもって成し遂げています。心から敬服せざるをえません。
さて、その華麗な手つきについては本書にあたってもらうとして、個人的に印象に残った点を記しておきます。香月氏の文章はとにかく、言い過ぎること、バランスを欠いたことを徹底的に排除する周到さがあります。それは読者に誤読を避けさせ、筆者の言いたいことをより伝わりやすくする丁寧さでもあり、誠実さでもあります。たとえばの表現ですが、0の位置にいる読者に、3という主張を投げかける時、その振り幅の勢いによって、4の方まで行ってしまいそうな読者を、丁寧に丁寧に、「4じゃないよ、3.5でもないよ」ということを説いていく感じです。(もちろんこれはちゃんとした物書きならわきまえるべきことなのですが、アイドル論についてはこうした慎重さがない文もたくさんあるのです。というか、筆者自身が4の方に5の方に突き進んでいって歯止めが効かなくなるケースもしばしばなのでは。)
ひとつ強く印象に残った一文を紹介します。香月氏は歌舞伎について用いられた「饗宴」という用語、これは「まだいろいろなものが未分の状態におかれている」ような上演形式のことですが、この言葉を、舞台と観客の未分化や共同演出という側面のあるアイドル現場に適用していこうとします。そこで、歌舞伎とアイドルとの類似する点を一旦は例示するのですが、そのあとの一文が鋭い。

もっとも、限られた要素を抽出することで二者の類似性を指摘することはいつでもたやすい。

これは自らの議論を行き過ぎないための戒めでもありながら、この鋭い剣で串刺しにされるアイドル論がいったいいくつあるのか、数えきれないほどでしょう。たとえばもちろん、この一文を前にしては、「アイドルと宗教の類似性」なんかについて語るのも、相当な覚悟が必要となります。こうした戒めを常に自らに課しているからこそ、香月氏の文章はひとりよがりにならずにすむのですが、一方でそれは個人としてのアイドルへの思い入れを欠いた冷徹な視線というわけでもなく、論理としての安定感が、ほとんど香月氏の個性のようにも見えてきて、アイドルに対するフェアな姿勢というものを文章を通して垣間見ることさえできてきます。(ここ数年香月氏の文章に慣れ親しんできた身としては、相変わらず「少なからぬ」とか「看取」「固陋」といった香月氏らしい語のチョイスも楽しみながら読みました。)
現代アイドルを考えるにあたっては第4章以降がスリリングです。現代アイドルの特徴として、アイドル自身が発信できるSNS等のメディアを持っていることは外せませんが、そういった場も含めて、アイドルの虚と実、表と裏、というようなものをどう考えていけばいいのか、というのはタイムリーなトピックだと思われます。簡単に結論を言えば、安易な二分法では割り切れないよ、ということなのですが、ともあれそこにおいて現れるアイドルの魅力、そしてそこにおけるアイドルの危うさの問題については、考えるべきことはたくさんありそうです。
第4章で引用されていた東京女子流を統括する佐竹義康の発言、「裏表なく人に好かれるような人間にならないと成功しないと考えています」は、最近の東京女子流のイベントでのMCの件(告白された話とか、男の子からプレゼントされたというような話をした件)を思い出させました。第5章において、香月氏は禁断の、とも言えるアイドルの恋愛の問題について、多少の無理を承知で突入していくのですが、ここがまた面白い。「アイドルは恋をしない(してはいけない)」という「(半ば古風な)アイドルらしさ」から距離を取るのか、あるいはあえて恋愛をしないことを宣言するのか。「アイドルらしさ」をめぐるゲームに、恋愛もうまく適用できるのだろうか。これはやはり、大変難しい問題のようです。とは言え、個人的にはもう、アイドルを「疑似恋愛」という語で括っていくような時代は、(あったとしても)とっくに過ぎたのだと思います。
すいません、結局大事なところはぼかしての感想なので、なんのこっちゃ分からないかもしれませんが、ともあれ、アイドルを論じたい人は、かならず参照すべき本だと思いますので、ぜひ読んでください。お願いですから、アイドル評論家を名乗っている人は、お金を出してちゃんと買って、この本を熟読してから、これからアイドルについて書くようにしてほしいものです。生産的なアイドル語りのために。



アイドル領域Vol.3

アイドル領域Vol.3

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

『Vol.3』のアイドルらしさ、をめぐる議論、また『Vol.4』の地方アイドルに関する論考は、香月氏の本の中でも取り上げられています。香月氏の本とあわせてお読みください。

アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.6

舞台と観客の未分化や共同演出という側面(饗宴性)については、「アイドル領域Vol.6」(特集:演じる)においても扱っているテーマです。