ケータイ小説「過誤・愛」

加護亜依のインタビュー2と3を見る。
「弱い人間」「弱い人間」と加護が繰り返す。その言葉は「人間は弱いものだ」という普遍的真理として受け取ろうと思う。「加護亜依は弱い人間だったので二度も過ちを犯しました。」そんな物語を消費して平気な面している人間にはもちろんなりたくないし、そんなに辛いことがあったのにまた頑張ろうとしている、応援しよう!というのも何か違うような。
「弱い人間」「弱い人間」と加護はまた自分を追い詰める。そして多分過誤を繰り返すのだ。僕はバッドエンドしか思いつかない。このインタビューが織り成す物語の収まりどころが加護の死にしかないような気がしてとてもこわいのだ。こうして2年ぶりに語り始めさえすればそれが「真実」であるかのような悲劇の物語を僕は目にしたくない。始めから僕はアイドルの語る言葉を信じちゃいない。
まとまりがつかないが、結局僕は、①アイドルという職業の成り立ちがたさと、②「アイドル=人間」と捉えてしまうことの悲劇をまた思うのだ。
加護が言葉を選びながら最終的にやむを得ず自分を責める言葉しか紡げない時、そしてとてつもなく爽やかでまぶしい苦笑いを浮かべるとき、アイドルである人間にかかる非常な非情な負荷を思う。
ところで多くのヲタにとって、加護が解雇された理由となるところの事柄は自明というか、暗黙の了解だった。それをほじくることは、プロレスが本当は演技なんでしょ、という野暮に近いことではなかったか。「サイゾー」3月号でも明らかにされたように、世の中はだまされないように「ガチ」ばかりを「真実」だと思い込もうとしている。そうだまされようとしている。テレ東以外のテレビ局で「ハッスル」と「ハロプロ」をまともに扱おうとしないのはその証左ではないのか。
リストカット」は「ガチ」である。ケータイ小説(僕はかけらも読んだことがない)で過激な描写がされるというのは、「中絶」やら「自殺」やらが「ヤラセ」のできない「ガチ」な出来事であることによって、それをネタ化、相対化するような精神的な志向性が生まれずに済むから、「だまされずに感動する」ことが容易に可能になるからだと思う。しかし、そんな風に「ガチ」ばかり盛り込んだ小説にはリアリティがない。日常生活はそんなに「ガチ」ばかりじゃないからだ。だまされないようにだまされないようにしても、結局虚構が紛れ込む。「真実」を求めてたら、全然日常とは似ても似つかぬ非現実的小説に感動するという皮肉。ともかく虚構と真実を峻別しようとする営みが不毛なのだ。
加護亜依」というケータイ小説めいたものがネットで流されている。そういうことなのだと思う。「リストカット」って言われたら、それを茶化すことはできないのだ。でも、じゃあ「応援しよう!」ってことになりますか?これを本当に自分を含めた加護ヲタに問いたい。なにか僕はこういう「ガチ」にこそうさん臭さがともなっていると思う。もちろんそれは、部分的にはこの物語に乗じてファンサイトを作る浅ましさのことなのだろうけど、その他にも「リストカット」という言葉を持ち出せば許されるだろうという意図が誰かにあるんじゃないかとか。ともかく加護のインタビューで出てくる「リストカット」という言葉から感じるのは生命の重みでもなんでもなくて、その言葉がかもす「ガチ」という記号性を、感動する後ろ楯として利用しようじゃないかという意識的にか無意識的にかの作用である。「ガチ」が「ネタ化」される、こういういたちごっこは常に起きている。僕が嫌なのは、本来ネタ化されてはいけないであろうところまでメディアに乗せてネタ化されてしまう「アイドルである人間」の宿命だ。守るラインがないのだ。際限がない。加護がここまで曝け出す方向で来てしまった以上、その物語がとてもハッピーエンドに向かうとは思えない。残念ながら、これこそ現実と虚構を取り違えていると言いたくなるのだ。加護を応援したかったら、沈むと分かっている舟に乗り込む覚悟は要るだろう。僕はそれでもその舟に片足を乗せようとするかもしれないが。


一旦話をかえる。僕が就職してストレスを感じたのは、顧客からのクレームだ。なぜそれがストレスになるかというと、そのクレームを自分自身で受け止めてしまうからだ。クレームを自分自身の否定のように感じてしまう。そうなると、そのクレームのマイナスのエネルギーがすべて自分のところに入ってくる。非常に辛い。ところが、仕事に慣れてくると、自分を分離していくことが可能になってくる。「仕事をしている僕に対するクレーム」と、「僕自身の否定」を峻別する。すると、そのクレームのマイナスをある程度抑えられるようになるし、休日にそのストレスを持ち込まないで済むようになる。
こういうことを年端もいかないアイドルである少女がうまくできるとは思えない。実際加護もそういうところで思い悩んだ部分があるだろうと思うのだ。世の中に自分が遍在し、時に愛され、また容赦ない非難に晒され、もてあそばれること全てを自分で引き受けてしまうこと。僕がアイドルを徹底してニックネームだけで呼んだほうがよいというのも、アイドルをする人間に複数の居場所を設けるべきだと思うからだ。
ガッタスやら月島きらりやら、ようやくハロプロでもアイドルの実存を守る術が整う兆しが見える。繰り返し書いているが、重要なことは、「アイドルをしている人間」=「アイドル現象の総体」という勘違いを誰もがしないこと、である。加護亜依はおそらく残念ながら「アイドル加護亜依」に対する愛も憎悪も自らの身体に引き受けすぎた。それは無理もないことなのに、自分のことを「弱い人間」と言わざるを得ない彼女は本当に痛々しい。
自分の居場所を日常で見つけられない人は、ときに自傷やら、ドラッグやら、宗教やら、そうしたところで無理に自分を発見しようとしたりするのだろうか。なにしろ芸能人には日常という日常がないのだから、よりアブノーマルな世界で自分探しをするのは自然と言えば自然な成り行きだ。そんなわけで、加護亜依も自分をケータイ小説化してしまった。
僕は加護にかけるべき言葉が果たしてあるのだろうか、と思う。僕はインタビューを受ける加護がちぃとも吹っ切れたり、開き直ったり、前向きになったわけではないように見える。まだ泥沼の中にいる気がする。ところで僕は10日ほど前に新人公演の感想で以下のようなことを書いた。
『現実的な側面ととことん向き合って絶望感にさいなまれたい気もする。アイドルの表と裏。裏を見てもアイドルが愛せるか。』
僕は加護に会いたいと思う。