複相化戦略

アイドル概念は、恒星である。直視できない。それを観測するにはサングラスをかけないと。サングラスはメディアだ。メディアを介さないとアイドル概念を捕捉出来ない。ちなみに個々のアイドルは惑星である。恒星の周りで付かず離れずの距離を取っている。あまり近くにいるとその熱で早々に消滅してしまう。惑星の構成要素はいろいろある。個々の惑星は時と場合によって様々に構成要素を変えながら恒星の周りに位置づけられる。例えば、以下の図によって、暫定的にアイドルをカテゴライズすることが可能になるだろう。

まずは【本質⇔表層】と、【リアル⇔非リアル】の軸についての説明が必要だ。
【本質】は、アイドルを、「何をなしたか」という「行為」において評価する軸である。それが歌であったり、演技であったりした場合、その「作品」を評価する、という視点になる。逆に【表層】は、アイドルが「何であるか」が問題となる。顔や肉体、声といった現象がそのまま受容される。アイドルが「存在」として見られる。
【リアル⇔非リアル】について。「リアル」・「リアリティ」の語を、伊藤剛に依り、「もっともらしさ」と「現前性」によって定義づけられるものとする(伊藤剛テヅカ・イズ・デッド」P85)。「『実際にありそうなこと』に感じさせるという意味の『もっともらしさ』」と、「目の前で起きているように感じさせたり」、「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも『ある』かのように錯覚させることである」という「現前性」を伊藤剛はマンガなどのメディアにおけるリアリティとする。アイドルの現場においては、「目の前で起きているように感じさせたり」という点は、まさに目の前で行われているわけであるから当然であるが、ライブにおいても「非リアル」な形で目に映ることがある(例えば月島きらりがライブに出演する場合など)。目の前で起きていたとしても、実在感は個々の現象により異なり、リアル⇔非リアルの差異がありそうだ。


さて、個々のアイドルを上記の図にどのように位置づけるか。典型的な事例を当てはめていこう。
【本質⇔表層】の両端
本質:歌手化(松浦亜弥
表層:エロ化(水着写真集)
【リアル⇔非リアル】の両端
リアル:アスリート化(ガッタス
非リアル:マンガ・アニメ化(月島きらり


改めて、4つの評価軸について記す。
1.本質
能力的な高さが問題となる。歌がうまい、演技がうまいなど、文化・芸術として社会的に評価される「本質」を兼ね備えていることが問題となる。ハロプロで言えば、松浦亜弥が最も典型的であろうと思われる。
2.表層
主に視覚を中心として、その現象が表層的に受け取られるもの。写真や映像、音声に、理性的な判断なしに「快」の感覚を呼び起こすもの。エロいものが代表的。ハロプロで言えば、水着写真集はここに分類できる。
3.リアル
最近アスリートがアイドル化しているのは「リアリティ」を求めてのことであろう。ハロプロで言えば、例えばガッタス(アイドルのアスリート化)。
4.非リアル
もっともらしくない、そこにいるという感じがしないもの。逆に言えば不可能性への欲望(萌え)を喚起しうるもの。アイドルとアニメ・マンガのコラボレーションがこれにあたる。ハロプロでは月島きらり、またミニモニ。など。

このような形で軸を設ける。各アイドル、各現象は、この二つの軸の値が決まることにより位置づけることができる。試しに図にアイドルを入れてみる。

おおよそこんなものだろうか。しかし、始めに述べたように、これは個々の現象について点で捉えたものであり、各アイドル現象が多様な現れ方をしていけば、それはある広がりをもった平面を形成するだろう。例えば、ガッタスがフットサルの試合を終え、メンバーがマイクを持って話をする時、彼女達の「キャラ」が押し出され、ニックネームで呼ぶべき空間が立ち現れる。その場合、下図1つ目のように、ガッタスという現象全体はピンク色の平面としてイメージすることができる。この平面の面積の大きさが、アイドルのイメージの振り幅を表す。Perfumeがどうしてあれだけ支持をされているかと言えば、この振り幅が大きい上に、絶妙なバランスであるからだろうと思われる。曲中、機械的なイメージを打ち出すPerfumeを図中左上に配置するとして、MCで奔放なトークを繰り広げるPerfumeは、一気にそのベクトルを右(表層)へと向かわせるだろう。また、感動して「あーちゃん」が泣いてしまう時などは、そのベクトルを下(本質・リアル)へと向かわせる(下図2つ目)。それらが形成する面積が広く、そして各状態がバランスよく共存する時、アイドル現象は至福の時を迎えるだろう。もちろん、ただ闇雲に欲張っていろんなベクトルへ向けすぎると、コンセプトがはっきりしないということになり、戦略としては失敗する。ここが難しいのだ。

わざわざこんな暫定的な概念図を作ってまで言いたいことは、第一に、アイドル現象は多くの要素から成り立っており、何となくでもこの図にそれぞれのアイドル現象を平面として配置してみることで、各アイドルを比較しやすくなるのではないかということ。第二に、こちらが重要なのだが、各アイドルがどのような振り幅を持っているかを確認することで、そのアイドルのコンセプト・戦略を理解しやすくなるし、またそのアイドルがどうしていったらよいのか、という考えの助けにもなるのではないか、ということ。
いずれにしても、バランスが悪いのはよくないことだ。松浦亜弥は、あまりにも「本質」(歌手)に寄り過ぎてしまった自分のバランスを補正するために、ライブのMC中にヲタに甘えることで自分を「存在」のほうへとずらそうとする。「月島きらり」はアニメのキャラだが、ライブ空間に久住小春扮する月島きらりが出てきたときには、「リアル」のほうに少し振れるだろう(それでもリアルな感じはしないけど)。以上のように、アイドル現象が複数の相として現れ、それぞれがお互いを相対化することによって、お互いを補強していく、そんなメカニズムがある。例えばPerfumeにおいて、MCで「ぶっちゃけトーク」をするメンバーは、いつもそれだけをしている存在だったら、「いや、でもそれは本音じゃないだろう、もっと裏があるはずだ」という疑念の目を逃れることができない。それが、「楽曲では機械的な振付をしている虚構的な存在」が広島弁で「ぶっちゃけトーク」をすることで、それが現実だ、「ほんとう」だ、という信用を得てしまうのだ。逆に、「機械的なイメージ」だけが先行するとどうなるか。「本当は人間のくせに」「音声を操作してる、ちゃんと歌ってないじゃないか」という非難の声が生まれてくる可能性がある。ところが、人間味のある状態を「ネタばらし」することで、楽曲のほうでの彼女達のイメージをうまく「作品化」することに成功しているのだ。まとめると、楽曲では彼女達は「作品」として記号的に「あり」、トークの場面では、彼女達は「存在」として身体的に「いる」。このバランスの絶妙さによってPerfumePerfumeたりえていること。これを私は以前、「階層化戦略」と呼んだが、「階層化」よりも、「複相化戦略」という言葉をとりあえず使おうと思う。アイドルのどの相が重要だ、とは思わないからだ(階層化だとレベルが違う複数の層があるような気がしてしまう)。
「複相化戦略」のメリットは以上のように、一つの相であれば疑念を持たれてしまうところを、複数の相を持つことによってあらかじめ回避することができるという点である。消費者はもはや、ただベタにアイドルを信奉することはできない時代である。アイドルが「分かってやっていますよ」というポーズをとらなければ、「だまされる」のが嫌な消費者は支持しないのだ。また、様々な相を持つことで、異なる消費層から支持を受けられるというメリットもある。そしてもう一つ、重要なメリットとして、「アイドルの実存を守る」という点を強く主張したい。負の例として、僕はどうしても「加護亜依」を挙げざるをえない。僕からすれば、加護亜依は、常に「加護亜依」という名前から逃れられなかったがゆえに、「アイドルをしている人間」=「アイドル現象の総体」であるという苦悩を抱えることになった。加護亜依はおそらく残念ながら、「アイドル加護亜依」に対する愛も憎悪も自らの身体に引き受けすぎたのだ。「ただ一人の自分」「本当の自分」という幻想の危険さ。これは現代人全てに言えることだが、特にメディアによってそのイメージを肥大化されてしまうアイドルにとってこそ最も危険なものだ。アイドルのあり方を複相化し、自分像をいくつかに分散させること。僕は願わくば、アイドルの仕事中はニックネームで呼んであげたほうがよいと考える。一つの固定された名前で全てを引き受けるにはアイドルの世界は重過ぎるのだ。