『憧憬』感想

『憧憬』買いました。
なんともいえませんなぁ。
予想通り、かわいらしいお人形さんが並んでいる。たまに水着を着て美しかったりかわいらしかったりしながら。
どういったコンセプトのもとでこの写真集が撮られたのか。
『美しいオトナの女性へと成長する、道重さゆみの至極のショットの数々。憂いを帯びた表情も、麗しい姿も全てが彼女の「イマ」!!』だそうですが、うーん、改めて、僕はなんで買ったんだろうか。帯についてるこの売り文句を見ても、ちぃとも購買意欲は湧きませんよなぁ。実際、こういうコンセプト通りの写真集ではあると思うのですが、しかしそんなもの求めちゃいない、と。
「のんの19」ですでに分かっていたことだが、より虚構的な写真の方が萌える。辻とか道重はそういう存在である。辻の場合端的に言えば、「谷間のない辻」>「谷間のある辻」ということである。道重の場合においても、写真集を見ていて、道重だ、と思わせるのは制服とかテニスルック(なぜこの写真が少ないのか理解に苦しむ)とかの、コスプレ的な様相を呈した写真。または、細く長い手足を見せつけるかのような水着姿で岩の上に立つ写真――紙切り職人が作ったぺらぺらの人型を風景写真の中に配置したような虚構感漂う――くらいで、他はなんか、人間だなぁ。
僕は写真の芸術としての価値とか評価の仕方というものを全く分からないし、アイドルの写真集を買うような輩の多くはそんなことに不案内であろう。写真集を見て思うのは、写真家は往々にして自らの芸術観において過度に写真集を作品として構成しようとしてしまうのではないかということだ。一方でハロショで毎週のように顔を中心とした写真ばかり買い漁っているヲタがいる。かく言う自分もまた顔がアップであればあるほど購買意欲をかき立てられるようなヲタである。
花畑、木漏れ日の中、浜辺、プール、清流。結構なことだ。結構なことだが、肝心の道重はどこだ?なんだかすごく教養のない人間の物言いになりそうで少しためらわれるのだが、道重の御姿をあえてはっきり写さないような写真にどのような意味があるというのか(鑑賞の仕方を誰か教えてください)。例えばネットの網の目の向こうにいる制服姿とか、黄緑に茂る葉で頭部を隠されてかろうじて垣間見る写真とか、果ては、片面が完全に花の写真でしかないページとか。『ヤグチ』の頃から僕はこうした「不可解」な写真に悩んできた。…それとも、もっと僕は主体的に妄想を膨らませなければならないのだろうか?写真家が要請している世界観にのっとって、物語を構築して、1ページ1ページの写真と対話し、被写体と会話し、全てのページをめくり終えたときに1つの物語を読み終えた感覚を味わわなければならないのだろうか。しかし、そこまでコンセプチュアルにこの写真たちが構成されているようにも思えないし、そんな手間をかけて鑑賞する気もないのである(これが辻の写真集ならできるだろうか?)。
書き出したら思わぬ形で長くなってしまったが、第一印象としては、萌えさせもせず、エロくもなし、ただ美的な何かをつくろうとして中途半端に仕上がったように思える(辻の写真集だったら「複製されるアイドル」みたいなテーマを読みこんでいくことも可能だったが)。道重を人間扱いしてはダメです。
僕の目的としては道重に対する「萌え」を感じたくて(正直に言うならそこにエロスも含まれる)買ったのだと今判断するが、それについて言えばイマイチ、と言ったところ。
書いていて今気づいたが、やはりアイドルは顔が命だ。顔が全てではないけれども、顔が命だ。1枚150円も払って僕達は写真を、顔写真を買い続ける。20枚も買えば写真集よりも金がかかるのに、ためらわず買う。もちろん買うということを自己確認の儀式として捉えることは可能で、写真の場合も買うことにおいてほとんど目的は達成されるということは言える。写真の実質的な意味などほとんどないのかもしれない(買ったまんま放置のハロショ袋が近くに転がってます)。とはいえ、「顔」というものが持つ力。それはなんだろうか。コミュニケーションへの希望だろうか。視線というもの。「見つめ合う」という感覚を容易に獲得できる。こちらを見ているという自覚的錯覚。それが虚構世界への入り口か。僕はやはり、一方的に見る写真よりも、「こちら」を見ている写真が好きだ。


オタクのセクシュアリティについては、また後で書こう。