写真集は萌えと親和性が低い
僕は写真集を買う。
今まで買ったのは、矢口真里、辻希美、松浦亜弥、道重さゆみ、矢島舞美、嗣永桃子。ほか、グループの写真集もたくさん買っている。
それでいて、そもそも僕は写真集というものがよく分からない。なんで買うのかなあ。これは、ライブになんで行くのかなあ、と同じ疑問だろうか。
2002年あたりから、ハロプロのメンバーが写真集を出すようになって、それもまあ、水着ショットを含むものが当然のように売られるようになって、僕は当時大きな違和感を感じたことを記憶している。水着なんか着なくても十分魅力的だ、というよりは、水着を着てはいけない、というような感覚か。それまで、モーニング娘。は明らかに物語で勝負していた。例えば「うたばん」が面白かった時代というのが、モーニング娘。の物語性が力を持っていた時期だと言える。
それに対して、アイドルの身体性を露わにして我々に提供する写真集というのは、我々の物語る能動性を阻害するものであったように思う。つまり、我々がその写真集に対して参与していきづらいというか、それに対してどうすればいいか分からない、逆を言えば、我々がいなくても写真集は写真集としてもう成立してるじゃないか、という作品性に対する違和か。
この「作品」という概念はアイドルを考える上で外せないテーマだ。写真集を見て感じることは、まずは写真家の名前が明記されているという事実である。これはかなり大きい。写真家が、自らの信念に基づいて写真を撮り、構成していく、という点での紛うことなき作品性。これにたじろぐ。僕がよく感じるのは、写真集には、僕からすれば必要のないショットが多く入っているなあ、ということ。遠くからのショットで、顔がよく見えないものであったり、顔を隠しているショットであったり、時にはそのアイドルが写っていないページがあったりとか。写真家がこうだと思う写真集という芸術のフォーマットと僕の価値観がまったく合致していないのではないかというフラストレーション。他のグラビアアイドルの写真集と同じ文法でハロプロの写真集を撮ることが正しいのか。もちろんそこには、ハロヲタときれいな女の子が好きな他の方々の両方を取り込もうという商業的な側面はあったであろうが、写真家が安易に型にはめていこうとする怠慢というのもあるのやらないのやら。
さて、とは言えハロプロの写真集にもいろいろある。僕が初めて買った写真集は、①「ミニモニ。Photo Book」だった。
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どこにいるか分からなかったり、身体性が希薄であったり、現実的にはありそうにない写真であったりすること、それが萌えが発動する必要条件であるように思われる。この写真集においては、つじが宙に浮いているような写真、辻が二人になった合成写真、鏡に映って複製された辻、どこだか分からない砂利の上にいる辻、稲穂の間から頭だけ出している辻、谷間の強調されないリボンだらけの水着の辻が萌えを喚起する。逆に、谷間のある辻、子供と遊ぶ辻なんかは、なんだかとても萎えるのだ。ここから分かることは、萌えがヲタの能動性によって生まれるものではないかということ。そのためには、なんらかの意味で抽象性、分からなさ、が萌えの入り口として用意されていなければならないのではないかということだ。
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我々はマンガのコマのように配置された写真を見ることで、それに没入することを阻害され、距離を持って対象に対峙せざるを得なくなる。それが現前性を失わせ、ある種の作品性を強める。そしてその作品性とは、リアリズムとしての写真ではなく、徹底してアンチリアリズム、ファンタジーとしての作品なのだ。そうしたコマ的な構成は全てのページに渡るわけではないが、80ページに渡る写真集のうち26ページにおいてこうしたコマ的な構成がとられているということは特筆すべきだろう。我々は一度そのコマ的構成によって対象との距離を意識させられた後、嗣永が醸すファンタジーの世界に、改めて没入させられるというような経路をたどるのだ。
もう一つここで注目したいのは、水着のページである。水着ショットのページが23ページある中で、6ページがコマ的な構成であるが、その6ページ全てにおいて、水着の嗣永を囲むように赤と黄色のゴムボール(のようなもの)が浮かんでおり、プールの水色とボールの赤・黄色がそこを非現実的な空間に仕立てている。そして、そこでは、水着による身体性が、さほどせり出してこないような現れをしているのだ。
これ以外の水着ページは、正直言えば、面白くない写真が多い。別に水着でなくてもよい、あるいは、別に嗣永でなくてもよいのではないかと思わせる写真だ。要は、嗣永の世界観と水着がやはりそぐわない。どうしても、商業的な事情から水着ショットが入っているという気がしてしまう。
「ミニモニ。」の方でも見られた、合成の写真も見られる。特に重要なのは、後ろが薄暗い林のイラストになっているページで、そこでは困った表情の嗣永の写真の左上に、「……」という吹き出しが配置されているのだ。完全にマンガそのものになっている。距離。まずは対象が現実には無いものと措定しておいてから、そこに没入していく、というオタク的構造。これが萌えにとって重要だということだ。
もちろん、嗣永はそうしたコマなど要さずとも十分ファンタジーを醸せるのであって、お花に囲まれた嗣永はコマの枠線に囲まれなくても十分に嘘臭い。そうした嗣永の持つポテンシャルと、コマの枠構造があいまって、非常に萌えを喚起しやすい写真集になっているのではないかと思う。
…まだ終わらない。日を改めて完結させます…。