アイドルと結婚、およびアイドルの期間限定性について

13年前、矢口真里のファンになった自分は、矢口と結婚する方法は何とかないものか、割と本気で考えたことがある。アイドルファンは、もしアイドルと結婚できますよ、という条件下におかれたら、(それがうまく続かないという予感があったとしても)結婚するものだと思う。一方で、好きなアイドルが誰か他の芸能人と、あるいは一般人と結婚されようものなら、やはりショックを感じるものだ。これはもういかんともしがたい。
アイドルが恋愛することについては、たとえそれが露見したとしても、まだチャンスはあると思う余地がある。その恋愛が破局を迎えれば、(処女性という問題は措いておいて)一旦振出しに戻る。恋愛はまだ不可逆な事態ではない。しかしそれが結婚となると、それが「ゴールイン」と言われるように、とりあえず終了である。その意味では、アイドルにおける結婚は、恋愛よりもはるか先にあるタブーであるはずだ。


ところで、地下アイドル姫乃たまの以下の文章は胸を打つ。「ファンが結婚ラッシュです。」から始まるこの文章の切なさはなんだろう。
http://realsound.jp/2014/10/post-1621.html
「姫乃たま『地下からのアイドル観察記』アイドルはなぜ“恋愛禁止”を掲げるのか 姫乃たまが自身の体験から見いだした答えと不安」


アイドルとファンは合わせ鏡のようなもので、アイドルが恋愛や結婚をしたらしばしば「裏切り」という言葉をもって評されるのと同じように、アイドルにとってもファンが自分のもとを離れていくのにそれ相応の感傷を抱いている。


私生活に別の顔を持っているのは、アイドルだけでなく、ファンも同じようです。ファンがアイドルに夢を見ているように、アイドルもまたファンに夢を見ているのです。


「裏切り」とは、ごっこ遊びからの離脱、そのルールの外に出ることを意味する。ふーむ。つまりアイドルの問題は、いつまでもそこにはいられない、という期間限定性にあるのだろうか。しかしもちろん、その期間限定性こそが、アイドルの最も強い訴求性でもある。


逆に、死ぬまでその関係性が保てるという可能性はあるだろうか。
以下は、「歌って踊り、読経する尼さん8人組」、アマゾネスのブログより。

http://ameblo.jp/amazonesu-official/entry-11942207289.html
アマゾネスの魅力とは?斎藤美海


私たち、アマゾネスは、お墓までファンの方々と付き合えるんです。
どちらが先に死ぬかはわかりませんが、死ぬまで、たのしい関係でいられます。
ただし、アマゾネスが終わらない限り!!!
(改行は無視して引用)


ふーむ。しかしそれよりも、氷川きよしである。
http://d.hatena.ne.jp/houkoudou/20141019/p1
氷川きよし15周年コンサート 日本武道館周辺雑感(前編)−腰の曲がったおばあちゃんまで集結させる求心力−(演歌記者・咆哮堂さんのブログより)


これこそ、死ぬまでの付き合いということだろう。昨年演歌歌手のイベントをはしごして見たことがあるが、おばあさんたちの「おまいつ」の方々の幸せな笑顔が忘れられない。氷川きよしのライブでも、80代以上と見られるおばあさんがけっこういたという。本当に「死ぬまでに一目見られてよかった」という世界が広がっている。この関係は、重い。重いが、それゆえにもう、聖職と言ってもよいのではないかと思う。


あ、結婚の話をしていたのでした。
以前、結婚を目指す「結婚願望」というアイドルユニットがいたようだ。
Wikipediaを見ると、「今すぐに結婚したい、結婚願望の強いタレントが集まって花嫁修業=タレント活動を行うタレント集団である。タレント活動の目的は、「しあわせな結婚をする事(=脱退)」であると公表している。」とある。実際、2人が結婚により脱退をしているらしい。
ふむ、やはり結婚をすると続けられないのか。


アイドルは、「アイドルらしさ」をめぐって、「アイドルらしさ」と「らしくなさ」を巧みに体現することでアイドルイメージを揺らがせ、時代ごとのアイドルイメージを作り、また他のアイドルとの差別化を図っている。恋愛や結婚についても同様である。結婚している、という設定の「清 竜人25」をここで取り上げないわけにはいかない。

しかしMVを見て思うのは、「一夫多妻制」というアイドルとしてのフックに過度に依存することなく、つまり「このコンセプト、面白いでしょう?」というご機嫌伺いなく、人と曲の魅力で勝負をしているすがすがしさである。
ということは、やっぱり恋愛とか結婚とかとは関係なく、アイドルって成り立たないだろうか、と考える。逆に、なぜアイドルが恋愛というものと固く結びついているように思われるのか。それは、おそらく人と人との関係性において、恋愛という形式がもっとも普遍的で、どんな属性の人と人でも、恋愛という関係性においてつながれる可能性があるからかもしれない。おっさんと幼女が、恋愛関係になれる可能性がある。おっさんと幼女は、親子関係になれる可能性は(ほとんど)ないが、恋愛関係になる可能性はある(これは実際の実現可能性のことを言っているのではない)。アイドルは、アイドルとファンが好きという気持ちにおいて関係を結ぶ営みであるが、それはやはり恋愛関係と類比的に捉えるのが確かに自然である、という結論に(自分としては一周まわって)たどり着いた気がする。
あ、違う。というか、「好意において赤の他人同士が関係を取り結ぶ」という事態を「恋愛」という言葉以外で表現するすべをおそらくぼくらは知らないのだ。アイドルとファンの関係を恋愛と表現する弊害も当然大きいのであって、ぼくらはそこらへんの語彙を整備していく必要があるかもしれない。ちなみに、自分は結婚しても、やはりアイドルは好きである。自分が結婚してもなおアイドルに抱く好意を「恋愛」とされてしまうと大変居心地が悪いのである、そういえば。


とりとめもない話をしてきた。それにしても、20曲連続でオリコン1位を獲得して、結婚・出産して2年足らずで復帰した後も4曲連続でオリコン1位を取り続けた松田聖子のことを、ぼくはまだよく知らない。

@JAM EXPO 2014

「@JAM EXPO 2014」、すばらしいイベントでした。
寝坊しまして、10時の開演に間に合わず、ひとまず10:45開始のJewel Kiss目当てで横浜アリーナを目指す。
それにしても、横浜アリーナの会場を7ステージと、トークステージ、運動会エリア、物販エリアに分けてという独創的な会場の設営の仕方はすばらしいです。朝の10時から夜7過ぎまでずっとアイドルが歌い踊り続ける。いまやどこにでもアイドルのステージは現れるし、いつでもアイドルがイベントを行なっている。そんなアイドルの「いつでも・どこでも性」を凝縮したようなイベントでした。
横浜アリーナの外周部分はスペースが十分にあって、小さいステージを設営することができ、そしてステージを見る客とは別に、柵によって通行スペースを確保することもできていて、大きな混乱はなかったように思います。進行についても、大幅に時間が押すこともなく、滞りなく行われていたように思います。すばらしかったです。
いろいろなグループを見ましたが、今回はアイドルとステージについて考えさせられたので、それを中心にレポを。


さて、会場に着くと、グレープステージでは「せのしすたぁ」がオープニングアクトを行なっていました。せのしすたぁの評判は聞いていましたが、初見でした。「アイドルなんてなっちゃダメ!ゼッタイ!」を歌った後で、ステージを降りて観客の中で「ワタシアイドル」を歌い始める二人。彼女たちが「サークル」の範囲を定めて、ファンがつくる円の中でパフォーマンスを続ける二人。ここからは当日のツイートも引用しながら振り返ります。





非公式ですが、参考となる動画はこちら。






上の画像はせのしすたぁのまおさんのツイートより引用
https://twitter.com/seno_mao/status/505903008983429121



中心のメンバーに向かってのケチャは、まるでナウシカを見ているようです(いい加減な気持ちで書いてます)。
「その者蒼き衣を纏いて金色の野に降りたつべし。」ファンの無数の手が、アイドルを支える。何でもない床が、一瞬にして、我々の聖地になってしまう。そんな風に、いい加減に聖地が出来上がってしまうところが、アイドルの面白いところなのです。
ということで、オープニングアクトがすばらしすぎたので、昼のオレンジステージも見てしまいました。ステージから降りてしまうという、運営サイドからすれば禁止しておきたいことを2度もできたというのは、運営の寛容さと、ファンとの信頼関係がなせる業かと思います。



続いて取り上げるのはJewel Kiss。
3人になってからは初めて見たので、初めはちょっとさびしい気もしましたが、ヲタの熱気は変わらずそこにありました。
Jewel Kissと言えば、最近YouTubeに上げられた動画が本当にすばらしいですね。それとともに、アイドルとは、ファンとは、ステージとはと考えさせられるものです。



一応説明しておくと、Jewel Kissの「ミラクル初デート」では、サビに入るとファンがステージと関係のない方向に走り出し、どこかでターンして戻ってくる、ということが一種のヲタ芸として行なわれています。この動画を見れば分かるように、サビに入ると、メインコンテンツはファンの振舞いの方に切り替わってしまう。そこで束の間捨て置かれるステージとは何なのか。
さあ、この横浜アリーナの外周部分に設置されたステージでのパフォーマンスにおいて、このダッシュは発動するのだろうか(するだろう)というのが見どころでしたが、もちろん案の定、発動したのでした。初めはさすがに危ないので早歩きVerになるのかなと思っていましたが、割とガチでダッシュでした。通りすがりのファンを驚かせながら、そして若干危ない思いもさせながら(ごめんなさい)、やはりダッシュは最高に楽しいのでした。



もう一組取り上げたいのが、青SHUN学園。
プロデューサーのSHUNさんが熱唱しているのを見て、アイドルのステージやないんかい、と思いながらも、結局その熱にあてられて自分も渦中に巻き込まれてしまう(いつものパターン)。最終的にプロデューサーが持ってっちゃうのって、ずるくないか?ずるくないか?いやー、しょうがない。SHUNさん、また毎度自己啓発っぽいことを言うんだなこれが。頑張った自分に拍手!



SHUNさんは客の側に飛びこんで、担がれて、観客と一緒にぐるぐる回って、胴上げもされて、また観客もオーエーオーで一体化して、確かに全力のいっしょくた感。



これらのライブから感じたこと。繰り返す部分もありますが、あらためて書いておきます。
アイドルはステージを上がることでアイドルになるが、一方で、ステージを降りてもアイドルはアイドルで居続ける。むしろ、アイドルを中心とした想像上のステージがそこに広がってしまう。これがすばらしい。
アイドルを名乗って、ステージに上がってパフォーマンスをする。それでアイドルは成り立ってしまう。しかし一方、そのステージというのが、別に大会場の立派なステージである必要はない。地方の街の一角に、テープで区切られた申し訳程度の範囲として示されるだけでもいい。せのしすたぁ横浜アリーナの外周部分に設営されたステージを降りて、自らがファンを統制して、横浜アリーナの何の変哲もない床に円形のステージを創り上げてしまった。ここにおいて、ステージに上がるのではなく、そこをステージにしてしまう、アイドルがいるところがステージになってしまう、という事態が起きる。
そして、アイドルの役割ってなんだろうという話。自分はアイドルが、楽しませるということさえできれば何をやってもいいという自由度が面白いと思う。歌を歌っても、踊っても、けん玉をしても、マジックをしても、コントをしても、運動会をしても、何でもいい。
盛り上がりたい、楽しみたいファンを統制するような、指揮者にアイドルが特化するならばそれもとてもすばらしい。
その盛り上がりの中で、メインの演者がファンになってしまう、という事態があってもそれは面白い。全力でダッシュするファンの集団が一番の見世物になる、ということがあっていい。もちろん、メインコンテンツがアイドルである、という事態を脅かしてはならない、そのバランス。
だから、SHUNさんが担がれるのは自然だけれども、自分はファンが担がれるリフト的なものを許容しづらい。それは一ファンを特権化してしまう可能性がある(もちろん単純に視界を遮るという問題もあるし)。アイドルはステージを降りてきてもよいが、ファンが一人でステージに上がることは許されない。だったらその人は、アイドルになればいいという話。


ということで、
アイドルはステージである。
アイドルは演者であるが、ファンが演じる時には、よき指揮者でもありうる。
そんなことを感じた@JAMでした。

ヴァニラ画廊「人造乙女博覧会4」でラブドールを見てきた

移転後、はじめてヴァニラ画廊に行ってきました。広くなっていい感じでした。


'14/8/5 〜 8/23オリエント工業「人造乙女博覧会4」
http://www.vanilla-gallery.com/archives/2014/20140805ab.html


ラブドールメーカーのオリエント工業は、1977年からラブドール(ダッチワイフ)を製作し続けてきた老舗メーカーで、2009年の映画「空気人形」にも協力し、映画の中で工場もロケ地として使われている。
ヴァニラ画廊では以前よりオリエント工業ラブドールの展覧会を行ってきた。以前トークイベントにも参加した、そのレポはこちら→「ラブドール 〜実用性と美の共存〜」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20100508


久々に見て、改めて現在のラブドールの造形美の素晴らしさと機能の高さに驚く。同時に、現代と比べると1977年の製品は全く美しくなく見えるのだが、それでもこうした製品に対する強い需要があったのだということを、当時のパンフレットを読むと切実に伝わってくる。創業当初は障害者や、様々な性の悩みを持った人向けのビジネスであったようだ。


身体に障害を持った人の性の問題については、映画「暗闇から手をのばせ」(http://www.kurayamikara.com/)で身体障害者専門のデリヘル嬢が描かれていた。ホワイトハンズ(http://www.whitehands.jp/mission.html)という団体は、男性の重度身体障害者に対する射精介助サービスというのを行っている。
自分が興味があるのは、性(欲)に関する問題は、そのまま医療とか介護につながっていくということだ。「スケベ椅子」と呼ばれるものが、介護の現場で使われているという件ひとつとっても、なんだか考えさせられるのである。


展覧会の話に戻すと、ラブドール購入者用の取り扱いビデオが上映されているのだが、服の着せ方や姿勢の変え方など、何か介護のビデオを見ているような気持ちになる。
一体だけ触れるラブドールが展示してあったので触れてみる。人工物という感覚はどうしてもあるが、体の部位によって柔らかさが異なり、本当によくできている。当然胸部は最も柔らかい。
来場客は男女比1対1くらいで、興味本位で見に来る人も多いと思うが、その技術と美しさには皆感動している様子。何よりも、作り手、ユーザーが並々ならぬ思いで40年弱の間進化をさせてきたものであって、それを目の前にして茶化す気持ちなど微塵もなくなってしまう。
パンフレットに載っていた、オリエント工業ショールーム担当の話すエピソードがすごい。ドールが届いた初日の夜(処女)の写真と翌日(結婚初夜を終えた)の写真を撮影された方(購入者)が、表情が変わっていることに驚いてその写真を持ち込んできたのだが、見ると確かに表情が違っていた、とのこと。
その真偽のほどはどうでもよくて、でもこの購入者とショールーム担当の方は、ラブドールへの思い入れを共有しているという点で、ファンダムを形成していると言ってもよいと思う。そういう不可思議なものが生み出されるほどに、ラブドールというものには魅力があるのだ。実物を目の前にすれば、確かにそう思う。そして一定の儀式的なものを経れば、それは容易に物ではなく人になるだろう。

展覧会は今週末23日まで。


参考:ラブドールの参考文献としてはこちら。

ダッチワイフの戦後史 南極1号伝説 (文春文庫)

ダッチワイフの戦後史 南極1号伝説 (文春文庫)

書評:処女神 少女が神になるとき

処女神 少女が神になるとき

処女神 少女が神になるとき

ネパールの生き神「クマリ」についての本です。「ネパールのカトマンズ盆地では、一人の少女が三、四歳で「生き神」として選び出され、十二、三歳頃(初潮)まで神として君臨する」(P14)。


アイドルを宗教とのアナロジーで考えてきた自分としては、それについてのヒントがあるような気がして、興味深く読みました。
「アイドルは宗教のようなものである」という言明の難しさは、「アイドル」という語も「宗教」という語も、時代により人により場合により捉え方が変わってしまうということです。どちらも定まらないAとBについて「AはBである」というのは、どうしても粗い主張になります。
特に「宗教」という語は、キリスト教のような一神教(それも組織のしっかりしたもの)か、あるいは一部の新宗教のいかがわしいイメージが強いように思われます。そこが、どうしても議論をかみ合わなくしてしまうところもあるのではないでしょうか。宗教という概念について再考を促してくれると同時に、アイドルについても考えさせられる本です。



カトマンズ盆地にはいくつかの地域に複数のクマリが存在しますが、首都カトマンズのクマリは特別にロイヤル・クマリと呼ばれます。「ロイヤル・クマリに就任できるのは、カトマンズに居住する仏教徒のうちサキャ・カーストに属する少女のみで、年齢は三、四歳くらい」(P71)。クマリ選出委員によって、32の身体的条件(現在は厳しく適用はされないらしい)を参照して適切な少女を選ぶとのこと。「ヒンドゥー教の国王でさえもその前では跪かざるをえないほどの力を持つ」(P16)。


ロイヤル・クマリはもちろんただ一人で、直接言葉を交わすこともなければ、写真撮影さえも厳しく制限されている。クマリの館から出ることさえ、年に数度の祭りの時に限られている。だが、いかにロイヤル・クマリといえども、彼女が他のクマリたちよりも歴史的な正統性を誇るべき唯一の存在であると言うことはできない。そして、他の地域に存在するローカルなクマリたちが必ずしも派生的なものだとも言えないのである。(P20)


こうして見ると、ロイヤル・クマリをメジャーアイドル的なものと見なすことができるかもしれません。大都市圏に存在し、厳しい条件をクリアして、唯一無二の存在として君臨する。もちろんいまやメジャーアイドルも接触イベントをするので、メジャーアイドルの方が緩いとは言えるでしょうが。
さて一方で、首都カトマンズの周辺に位置する地域にもクマリは存在します。たとえば、ブンガマティという地域にもクマリがいます。


ここ(筆者注:ブンガマティ)のクマリは田畑のあぜ道を平気で裸足で歩き回っており、友だちと仲良く遊ぶこともあるし、それほど特別扱いされているようにも見えなかった。しかも、わずか二、三年ですぐ次のクマリへと交替してしまうのである。(P169)


これは地方アイドルっぽいですね。あまり厳密な条件で選ばれることなく、日常生活もその地域で平気に送れてしまう存在で、祭りの時には役割を果たす。また、バクタプルという都市のクマリは三人いて、主要なクマリと補助的なクマリに分かれています。パタンという都市の祭りで、クマリの衣装を着けた幼い少女500人がお祭りに参加したこともあるようです(P287)。
以上のように、まず面白いと思ったのは、「生き神」といってもその選ばれ方や生活ぶりは異なり、権威づけにも相当な濃淡があるということでした。



次に「処女性」の問題を考えます。


クマリは「まだ月経を経験していない純潔な少女」でありながら、既に当初より八母神の一人(つまり妻であり母である)という矛盾を抱えていた(P49)


処女神が一見セクシュアリティと無関係に見えるのは、実はあまりにその力が強大で危険だったからに他ならない。性が消失するところにはまた性の極限値がひそんでいるのである。(P115)


クマリはたしかに無垢の少女によってその役割が果たされることになるが、おそらく人々の潜在意識のなかでは処女の力に対する畏れの感情が波立っていたに違いない。無垢であり、純粋であり、「ゼロ」であるからこそ、何者かが彼女の身体に入り込むことができる。理解を超えた強大な力とまったく無力な少女の組み合わせ、そこにこそクマリの秘密が隠されているのである。(P92)


もしかしたらイノセントであるということと、神がかり(なにかにとり憑かれているということ)であるということのあいだには、そんなに大きな違いはないのかもしれない。イノセントというのは単に純真で無垢な状態を意味するだけではない。むしろ何者にもなれるということではないか。(P255)


これらを読むにつけ、私はクマリとアイドルとの類似を思わずにはいられないし、少女が時に神的なものと見なされることにも納得をしてしまいます。自分が7年前に書いた日記で、気色悪いものが残っていたので引用してみましょう。


一生懸命振り付けを真似して、叫んで、飛んで、なんとかアイドルになりたい。菅谷梨沙子の表情を見ていると感じてしまうのだが、ステージのアイドルと同一化するためには、その対象のアイドルが、できるだけ空虚であったほうがいい。人格を感じないような、人形であったほうがいいのかもしれない。僕の魂よ、人形に乗り移れ。
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070715/1184517092


でも、この気持ちは今でも理解できます。アイドルは異なる矛盾しているような二項を併せ持つことで、すごいものと見なされます。「男/女、処女/母、人間/神、有限/無限、破壊/慈悲」といったものの境界をやすやすと超えてしまう。
ただ、ここでいう「処女性」はあくまで象徴的なものであって構わないと思われます。つまり実際に処女でなくてよいということです。実際、いまのアイドルは「実際の処女性」についての屈託から解放されつつあるように思います(しかし解放され切ることはおそらくないでしょう)。


ところで、パタンという都市のオールド・クマリ(と筆者が呼ぶ)というクマリの存在は面白い。六十歳を過ぎても月経の始まりを否定し、(おそらく)並外れたスピリチュアルな能力によってクマリの座に居続けている。
これを見ると、「処女性」が問題とされている中でも、並外れた力によってアイドルであり続けることも可能なのだ(しかしその例は少ないだろう)ということを思わされます。多くの人はここで松田聖子あたりを例に挙げたくなるかもしれません。
ただし、筆者はここで慎重に釘を刺しています。


幼いクマリの場合、その内部が限りなく無(ゼロ)に近いからこそ、何か別の大きなものが入る余地が生まれるのではないか。無垢とか処女性とか純潔とかいうのは、人間が神であるために欠かすことのできない第一の条件なのである。既に何かが入ってしまっていると、それだけで神の入り込む余地は少なくなってしまうのだ。つまり、オールド・クマリの霊力はたしかに認めるものの、そうした異質なものの容れものといての幼いクマリこそが神の最もプリミティブなかたちなのではないか。(P146-7)


だからやはり、「アイドルは若いほうがいい」、というのは神聖性を問題にするならば(一般論としては)正しいと言いたくなります。


以上、権威づけや処女性について考えてきました。最後に、神と人間の関係について。


ここカトマンズ盆地では、神はキリスト教神学でよく語られるような「絶対他者」などではなく、神と人間とのあいだにはゆるやかな結びつきさえ見られる。人はそのまま神になり、神は同時に人でもある。(P284)


こうした宗教観をもとにすれば、アイドルは宗教であるとか、アイドルを神と見なす、ということがとても自然に思われてきます。一定の条件を満たせば、少女は神になる。それは遠く手の届かない高貴な存在でなくても、地方都市の学校に通う一見ごく普通の少女が、週末に地元のショッピングモールのイベントにアイドルグループの一員として出演するというだけでも、です。


都合のいいところだけ引用してきましたが、全体を通してアイドルについて考えさせられる本です。好きな映画「エコール」も本書の中で紹介されていました。アイドルや宗教的なものに関心がある方なら、興味深く読める本だと思います。ぜひどうぞ。


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アイドルと勉強

Study☆Stars projectによる、アイドルと自習をするイベントに行ってきました。今回の記事では、「アイドルと勉強」について考えます。


AKB48が学校の制服風の衣装で大人数でパフォーマンスをすることに端的に表れるように、現代のアイドルと学校のイメージは強く結びついています。そして実際に多くのアイドルは中学や高校や大学に通う学生でもあります(参考:アイドルと「学校」 〜育成型アイドルの一形態〜(2011.10)https://note.mu/onoyax/n/n43bdbd852109 )。その点を考えれば、アイドルと勉強が結びつくのはごく自然のことです。ですが、エンターテインメントであるアイドルと、一般的には楽しいイメージのない「勉強」をつなぐという作業は容易ではないようにも思います。以下にいくつかの例を挙げながら、アイドルと勉強の可能性について考えていきます。


アイドルと勉強を絡ませる場合、その方法は大きく二つに分けられると思われます。一つはアイドルが先生であるケース(先生がアイドル的であるケース)、もう一つはアイドルが一緒に勉強するケースです。順に検討していきます。


●お気に入りの先生に教わる
中学生・高校生のための、イケメン・可愛い・面白い先生を選んで学べる「かんたん動画」学習サービス『スナスタ』というのがあるようです。http://snapstudy.jp/
これは先生によってモチベーションを上げて勉強をする、というシステム。先生の容貌が良いか、面白い先生なら勉強のやる気が起きる、ということですね。


もう一つ、家庭教師アイドル。http://www.going-net.com/comedy/2014/08061339.html
「勉強の楽しさや必要性を世の中に訴えていくことをコンセプトに現役女子大生のみで結成されたアイドル」だそうです。


以上が、アイドル的な先生によって勉強へのモチベーションを高めるという方向性。



●アイドルと一緒に勉強する
ユーキャンは昨年よりAKB48のメンバーに資格試験にチャレンジさせるという企画を行っています。(参考:AKBチャレンジユーキャン!2014 http://www.u-can.co.jp/challenge2014/index.html
この企画では、「ユーキャンの教材を使って勉強すれば、アイドル「でも」資格が取れる」(のだから自分もできるかもしれない)という宣伝効果を狙っているものと思われます。ここでは、一般的にアイドルはあまり勉強ができない、頭がよくないというマイナスイメージを逆手にとっていると言えます。実際にはいまや東大にも早慶にもアイドルはいるわけで、そうしたステレオタイプのイメージは必ずしも事実を反映していないとは言え、この広告はアイドルという存在をうまく活用したものと言えるでしょう。


一方こちらは、AKB48の慶応大生内山奈月さんと憲法学者南野森さんによる憲法の入門書「憲法主義」http://www.php.co.jp/kenposyugi/

憲法主義:条文には書かれていない本質

憲法主義:条文には書かれていない本質


現役東大生アイドルの桜雪さんの以下の動画も、うまくアイドルと勉強を絡ませたケース。けっして面白い動画とは言い難いですが、東大生のアイドルは、当然勉強ネタをコンテンツにしていきますよね。
【受験戦争】世界でただ一人の現役東大生アイドル:桜雪がセンター試験(数?・A)を解いてみた【スチームガールズ:仮面女子】


一緒に勉強しようという方向性に加え、こうしたアイドルさんが出てくるのはとても頼もしいことです。私は個人的にはアイドルが全く勉強が出来なくても、それはアイドルであることにおいては全く構わないと考えますが、「(女性)アイドルはバカなものだ」という狭いアイドル観はつまらないと思います。アイドルイメージの幅を広げてくれるこうした存在がこれからも出てくるとよいと思います。(一方もちろん、勉強(や他のこと)が全く出来ない少女がアイドルに夢を託す、というように、アイドルでしか勝負できない少女というのも存在するでしょう。それはそれで尊い存在だと思います。)



●アイドルと一緒に自習をする
さて、今日アイドルと自習をしてきた話をします。
Study☆Stars project については以下を参照のこと。
http://ameblo.jp/studystars/entry-11828556574.html
竹橋駅と直結しているビルの9階、30人ほどが入れる会議室的な空間で、アイドルと一緒に4時間自習しましょう、というこのイベント。台風の影響で電車が遅れて、自習開始時刻を30分ほど遅刻して会場に入ると、アイドル4人(spring closetというユニット名)と10名弱のファン(?)が静かに自習をしていました。すでに言及している人がいるように、こんなに静かなアイドルイベントは見たことがない。非常にシュールな図ではありますが、窓の方に向かって一列に座って自習をする4人のアイドルの背中を見ながら、ファンは自習をすることになります。1時間単位で自習をして、合間にはどんな自習をしたかを発表したり、ミニライブを行ったり。チェキ撮影では自習で覚えた内容を書いたボードを持ってアイドルと撮影をしたり。しかし時間的な割合で言えば、圧倒的に自習時間の方が長い。アイドルイベントのメインコンテンツが「自習」です。これは本当に面白い試みです。


なによりも驚いたことは、そして強く印象に残ったことは、「なんかすごいはかどる」というこの一点に尽きます。なぜこんなにはかどるのか、集中できるのか。笑ってしまうくらい作業が進みました。ちなみにこの文章も自習中に書いています。アイドルファンの他に、単に物書きをしたり、勉強をしに来ている雰囲気の人もいて、その意味でなかなか異様な雰囲気でした。いや、アイドル現場として異様なだけで、まっとうにそこは自習室だったのです。


ちなみに、昼に行われたミニライブのパフォーマンスは全然なのだけれど、むしろメインコンテンツが自習なのだからそれでいい気がしてきます。そう、天平文化について一生懸命勉強してくれればいいんです。ここから分かることは、現代アイドルが、「体験の共有」を提供するものであればいい、ということです。コンテンツは何でもいい。時々アイドルの背中を見ながら、つまり同じ方向を向いてみんなで一緒に何かをするという体験が尊い。だから、イベント中に議題に上がった、アイドルの自習はこちら向きがいいか、向こう向きがいいかは自分にとって自明で、一緒に向こうを向いて勉強するべきなのです。そしてライブや接触イベの時に対面すればいいことです。


ついでに言っておくと、勉強するアイドルの一つのメリットとして、たとえばアスリートがアイドル化する際と同じような「ストイックでピュアなイメージ」をそこに読み込むことができるということもあるかもしれません(参考:?女性アスリート・四元奈生美http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080309/1205083825)。本気で受験や勉強をするならアイドルをやらない方がいいのでは、というような意見がちらちらツイッター上で見られましたが、そもそも両立させるためのプロジェクトなので、それを言ってもしょうがないと言いますか、部活とか習い事をなるべく続けながら受験するというケースもままあるでしょうから、本気じゃないということには全くなりません。
ただもし本気度を表現していくのであれば、場合によってはメンバーの成績を公開していく(ユーキャンはそこをうまくコンテンツにしていますね)という手もあるかもしれません。そこでは、ファンも同様に、成績を上げるだとか、資格を取るだとかの目標設定を共有し、アイドルと励まし合いながら目標に向かう、という姿が望ましいでしょう。


次に別の現場があったため、3時間の自習が終わった段階で会場をあとにすることになりましたが、不思議な充実感が残りました。「アイドルと一緒に自習をしたら驚くほどはかどった」という一見滑稽な事実が、ネタとしてでなく、何か可能性を帯びたものとしても迫ってくるようでした。


この辺で一応のまとめをしておきますが、「アイドルと勉強」ということで考えさせられるのは、勉強という、多くの人がモチベーションを上げづらい事柄に対して、アイドルをフックにすることで、どのようにそれを娯楽化・ゲーム化し、楽しくやる気の出るものにするか、というのは興味深い問題だということです。
Study☆Stars project他、アイドルと勉強を結ぶ様々な動向に今後も注目していきたいと思います。

TIF感想

TIF(TOKYO IDOL FESTIVAL)2014の2日目に行ってきました。日焼けで腕が痛いです。当日夜にツイートした内容を中心に、感想をまとめておきます。

チラシをもらったアイドルは以下の通り。NA-NA、Re-2、メグリアイ、強がりセンセーション、はちきんガールズベースボールガールズ、姫宮こもも、水戸ご当地アイドル(仮)。スマイルガーデン付近と、物販会場付近は他にもどこの馬の骨か分からないアイドルがいっぱいビラを配っていた。ランドセル背負ってた二人組が強烈な雰囲気を漂わせていたが、名前分からず。(ちなみにこの「どこの馬の骨か分からない」というツイートでプチ炎上を起こしましたけど、これってここに名前を挙げたアイドルを「どこの馬の骨」って書いてるように誤解を生む表現だったことが問題だったと思うので、その点はすみません。表現直しました。)
アイドルによってチラシは様々だったが、チラシの裏にTIFのタイムテーブルを印刷していた水戸ご当地のやり方がうまかった。とにかくビラ配るアイドルが多くて、その多くはTIFに参加できない弱小アイドルかデビュー前のアイドルなのだけど、そこらへんに「アイドル」が歩き回っていることに我々も全く動じなくなっている。


当日の行動記録。ラジオ体操→おはがーるふわわ→小池美由MC→GALETTe MC→JK21おやゆびプリンセス小池美由Negicco→DLH→水戸ご当地アイドル(仮)→GALLETe→LinQ→水戸MC→Rev.from DVL→ドリ5→TPD→リンダ3世→スルースキルズ→AeLL.。かなり走った。特にフェスティバルステージとスマイルガーデンの間は何往復もすることになった。


初っ端のラジオ体操。これは本当にすばらしかった。「夏の朝にラジオ体操を行う」という非常に健全な行為だが、それゆえヲタの方で想像力を働かせてその場に合ったものとして最高に盛り上げてしまう。もちろんラジオ体操がほぼ全ての人に知られたものであるという「分かりやすさ」も大事。(ちなみにいまのラジオ体操は1951年から続くものだそうで、全国に放送され、また朝に子供を集めて行うラジオ体操の会も全国で開かれているようだ。)

ラジオ体操のクライマックスのジャンプのところは、当然ファンの推しジャンプのようになる。示し合せなくてもこうなるくらいの共通了解みたいなものがある。ハロヲタとしては、マジヲ体操を思い出さずにはいられない。

以上を考えれば、ラジオ体操をやろうという選択はとてもすばらしかった。今考えれば当然に思えるが、実際にヲタがそこでアイドルファンなりの「ラジオ体操」を即興でやれてしまうことは感動的ですらあった。ステージ上のアイドルが笑い転げていたように、そこでは我々が演者になった。
批評誌『アイドル領域Vol.6』でも扱った「観客の演者化」は、他にもいろいろな場面で目にすることができた。特にオープンスペースでのイベントの場合、アイドルを応援するファン、を見る周りの一般客、という構図ができあがることが多い。

アイドル領域Vol.6

アイドル領域Vol.6



おはガールふわわ。お披露目はTIFが初めてとのこと。曲中にけん玉をやるという演出は面白い。てゆうか、ちゃんとうまい。こういうのを見ると、アイドルの幅の広さというか、「芸であれば何でもあり」という自由度の高さを感じる。この点については、『幻の近代アイドル史』も参照のこと。


「ストリートけん玉」って、ストリートをつければカッコいい響きになるってことなんだと思うけど、ベーゴマを初めとして、時代遅れになったおもちゃのリバイバルってのは、おもちゃ業界的にはすごく大事なことなんだろーなーと思って見ていました。

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INFO CENTRE、小池美由MC。普段のイベントは割と同じようなパターンでしゃべるけど、芸人がいじるがゆえにアドリブ的な対応が求められるこの場面でも圧倒的に面白かった。小池の、「飲酒運転できる歳なの」には笑った。とにかく、すべらせない技術が卓越している。それから、後述するが、表情の作り方が興味深い。


フェスティバルステージのJK21、きゅーりなさん(田中梨奈)の慈愛に満ちた表情が、会場の全ての人のどうしようもなさを赦した。表情がそのままその肉体に宿る精神の美しさを示した。この場合、「本当」は表層に貼り付いているのだった。
客席に向けてハートマークを作る時のきゅーりなさんの表情は、本当に全ての客の煩悩を引き受けているような、悟り切った慈愛の表情だった。こうした言明は、全く他人に伝わらない、極めて個人的な(宗教的)体験の告白だが、アイドルファンなら、皆似たような経験をどこかでしているかもしれない。


フェスティバルステージ、真夏でも除雪魂、おやゆびプリンセス。代表曲で、ファンが何て叫んでるのか知らなかったのだが、ファンがスケブで示してくれたのでようやく「俺らはラッセルボーイズ」って叫んでいるのを知った。この曲は終盤に長い口上も入る。「洗濯機」も起きる。


TIFはそれぞれのアイドルファン文化を披露するファンの晴れ舞台でもある(ファンの演者化)が、一方で「一見さんお断り」のようにならないように、「ここではこう言います」「こうして楽しんで下さい」が分かるように常連ファンが気遣いをするというのがよく見られる。これがとても助かるし楽しめる。一度聞いただけでは分かりづらいコールや口上を、スケッチブックやら、もっと大きい模造紙に書いて、邪魔にならない位置に掲げる、ということを常連ファンが行うことが多い。北海道のフルーティーとか、水戸ご当地アイドル(仮)とか、他おそらくいろいろなアイドルのファンがやっているのだろう。
しかし一方で問題なのは「ありがとうございました」問題だ。そのアイドルの出番が終わった時に、トップヲタらしき人が「ありがとうございました」と叫ぶことがよくある。一見美しく非難しづらい行為だが、アイドルへの愛よりも、そのヲタの自己顕示欲があふれてやしないか、と感じる時もたまにある。これは「ウリャオイ」の「ウリャ問題」と言い換えてもよい。


スカイステージ、小池美由。一つ感じたのは、小池美由は「性欲」を巧みに回避している気がするということだが、どうだろうか、実際のファンは。
小池の、初見のアイドルファンに対するアピール力はすごい。初見でちゃんと楽しませて帰す。こないだ書いた記事も参考のこと。(小池美由の距離感 http://d.hatena.ne.jp/onoya/20140713


ホットステージ、Negicco。「圧倒的なスタイル」で、後方の観客まで広い範囲まで巻き込んでのラインダンス。アイドルがハブになって人をまとめていく象徴例。自分は全然ノリのいい方ではないのだが、自然と肩組んでやってしまった。6年もやってる曲だから、みんな分かっている。
この「圧倒的なスタイル」のように、一曲でアイドルファンをつかむ曲を持っているグループは、こうしたイベントでは強いよね。Negiccoの次に出演したドロシーで言えば「デモサヨナラ」だけど、ドロシーは歌もダンスももうすっかり貫禄があって、それなしでも全く飽きさせなかったです。


ドールファクトリー、水戸ご当地アイドル(仮)。水戸はデビュー直後からチェックしている好きなグループですが、もう少しパンチがほしいというようなことを当日昼にツイートしたけど、もしかしたら必要なのは観客の一体感だったのかもしれない。自分は水戸ヲタがいないエリアにいたのだ。
水戸ご当地だったら、ちゃんとそれなりのコールして、曲終わりに印籠を出されたら土下座しないといけない。(初見のアイドルファンが混じっているので)土下座が観客一体となって決まらないから、自分の中のもやもやが残っただけかもしれない。水戸のパフォーマンスは、ふわっとしている雰囲気が好きなのだった。バッキバキに踊る必要なし。
で、水戸ご当地センターのまりなっぴですが、美しいのはもちろんですが、センター的雰囲気を持っている、と改めて感じた。悪い意味でなく、グループのセンターは空虚な方がいい。空虚というのは、ファンの視線を受け入れるだけの器の大きさがある、というようなことです。
すごいざっくりですが、安倍なつみ前田敦子百田夏菜子矢島舞美、チームしゃちほこの秋本帆華あたりの系譜を感じるんですね。確固たる意志、みたいのじゃなくて、器の大きさ(逆に言えば天然)みたいなところですかね。ちょっと適当なんで、あんまりここ突っ込まないで下さい。


ドールファクトリー、GALETTe。「Brand-New Style」の「HA‐‐‐‐」ってサビ前の高音部分で、歌声から意味がきれいに剥がれ落ちていく感覚を得ることができる。これは解放感。
参考:「アイドルは「表意」せず、「憑依する」」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20090315/1237126654
(我ながら、この記事、名文だと思います。ぜひ読んでみてください。)
で、GALETTeはののこさんがいい。笑顔以外に意図的にしている表情がいい。困り顔、りりしい顔、ゆがませた顔。DLHの富永美杜さんのびっくり顏にもハッとさせられたが、小池美由の笑顔も含め、ちゃんと演じている表情は見ていて飽きない。それはわざとらしさというマイナスにならない。ある程度の距離からステージ上の演者を見る時、観客からは、微細な表情の変化は感じにくい。だから当然演者は、1対1の対面のコミュニケーションよりも過剰に表情を作ることになる。まさに女優。
GALETTe、基本的にののこさんをずっと見ているのは、表情の予想がつかないから。それは気持ちをざわつかせる。古森さんの顔もすごい好きなんだけど、「こいつにはだまされないぞ!」とつい思ってしまうのだった(←これすごいほめてます)。その悪女感がいい。
フェスティバルステージ、LinQは、「チャイムが終われば」の「いーこーうー」のところの振付けが最高にいい。最後の方でビーチボールを客席に打ち込んでたけど、けっこう近くに落ちました。


スマイルガーデン、Rev.from DVL。遠巻きに見たので、あれがかんなさんだ、という感じで終わる。dream5、誰を推すと言われたらほとんどネタを通り越してアキラくんですね。かっこいい。あと、何度も言いますが、ちゃんと腋の処理もしていました。


ドールファクトリーのTPDは終わり間際しか見られなかった。リンダ3世、昨年はステージ上にメンバー以外のブラジル人が立っていたが、今回はメンバーの家族らしき女性がヲタと一緒に応援していて大盛り上がりで、ヲタを引き連れて回ってました。
リンダ3世のメンバーでは、さくらさんに目が行くのですが、これは明らかに運動神経が悪そうで、昨年は振りの通りに体を動かそうというけなげな感じが印象に残っていたからですが、今年は少しうまくなってました。
エンジョイスタジアム、スルースキルズも終わり間際のみ。このグループの罵っていいというコンセプトについてはしっかりと検討をしたいので、一回しっかり見ておきたかった。またの機会にじっくり見たいと思います。


ドールファクトリー、AeLL.。いよいよこのグループもあと少しで活動休止ですね。曲もいいし歌声もいい、何より醸し出す雰囲気がとても品がよいと思いました。そしてファンの盛り上がり(応援文化)もすごくて、この4年でファンが濃密な歴史を紡いできたことを感じさせました。
TIFの面白さとして、いろいろなアイドルのファンが、それぞれどんな応援文化を紡ぎ、アイドルメンバーと信頼関係を築いてきたかということを、(アイドル、ファン双方の)短いパフォーマンスの中でも感じることができるということがある。AeLL.にも強くそれを感じました。


疲れてグランドフィナーレを見ずに帰宅。TIF、純粋なアイドルヲタにしてくれるし、それでいていろいろなことを深く考えさせてもくれる。素晴らしいイベントでした。マナーの問題は話題に出てますが、そこもしっかり議論の上、毎年開催してもらえるといいなーと思います。

小池美由の距離感

7月6日、新木場スタジオコーストで行われた「アイドル横丁夏まつり」に行ってきた。TEMPURA KIDZ、GALETTe、吉川友おっPサンバもよかったが、小池美由のことをようやく語ろうと思う。
というか、参照すべき小池美由論って誰かもう語っているでしょう。それ、教えて下さい。


小池美由というアイドルの特徴として、そのMCにおけるファンとのコミュニケーションのあり方というか、場の掌握の仕方が挙げられる。たとえば、曲終わりには決めポーズのあとに自ら拍手をすることで、「ここは拍手をするタイミングですよ」、ということを示し、実際に拍手をさせる。あるいは、小池のチラシを紙飛行機にして飛ばして、運よく受け取ったファンに対して、「みんなでおめでとーを言いましょう、せーの、(おめでとー!)」という流れを作りだす。とにかく、小池はよくしゃべるし、よくしゃべれるし、よく声を張っている。そして主導権を握る。そのやり方は、保育園の先生のようにも見えるが、子供が分かるコミュニケーションは誰にでも通じる、ということに思いをいたせば、小池のこのやり方は初見の観客にもやさしい方法だということができる。実際、このイベントは小池のファンではない人も多く来たわけだが、それでもその場をしっかりと掌握してしまう小池の能力は目を見張るものがあった。
もう一つ注目すべきは、小池は基本的に、ファンの言葉に呼応してMCの方向性を変えるということをしないように見えること。つまり、小池のMCは対話ではない。ファンが勝手に叫んでいる時、小池は、「どーした?」とか「いま小池がしゃべる番」と言って、あくまでファンの声に反応しながらも、主導権は渡さない。その意味で、小池はファンの声に動揺しない。あくまで、我が道を行っている。そればかりか、小池は望ましいファンの反応を先取りして自ら演じてしまっている。
たとえば、この動画(非公式ですが)http://www.youtube.com/watch?v=ccJbT_itCgQ では、4分以降から始まるMCにて、この会場に来たのは初めてかという問いかけに対する観客からの反応「はじめてー!」を、自ら先取りしてしまう(「エア観客」を創り出す)。この、自分の手を使った他者の創出という手法は、自分にとってはオードリーが2008年のM-1決勝で行った選挙演説のネタが記憶に残っている(You Tubeで「オードリー 選挙演説」でもしかしたら出てきたりするかもしれない)。いやもちろん、「他者がいると見なす」ということは、落語等の古典芸能でも必要不可欠の手法であり、人数が限定的な演劇(演じること一般)において当然の技法である。
しかしあえてアイドルの特殊性を指摘するならば、演劇作品に観客を巻き込むのが現代アイドルの特徴である。演劇の表現自体に観客が取り込まれる。アイドルの楽曲が合いの手・コールの類が入りやすいように構成されているのも、またアイドルファンの服装(特に色)やペンライト(キンブレ)が演出の一部となってしまうことを見てもよいが、いずれにしても、そこでは演者と観客が明確に二分されていない。観客もまた役者なのだ。


では小池の面白いところはどこかというと、そうやって曖昧化した演者と観客によって成立する「演劇」を、もう一度演者の側に引き戻そうとしているかに見えるところだ。つまり、MCを「エア観客」とのやりとりも含めて行うことで、「アイドル演劇」を成立させるが、「エア観客」はもちろんアイドル自身に都合のよい観客であり、そのことで小池は常に主導権をもって演じていくことができる。ただし重要なことは、このことが実際の観客を置いてけぼりにすることはないということである。あくまで現代のライブアイドルの作法にしたがっているため、また時にはファンの声に対しても反応する(もちろん主導権を握ったままで)ために、けっしてないがしろにされている感じがしないのだ。
こうしたあり方は、ソロアイドルの最適解の一つであると感じている。ソロアイドルの欠点は、メンバー間の関係性というおいしいネタが発生しないとか、ダンスにおけるフォーメーションがないとか、ハモりとか歌声の多様性がないとか、数えだせばキリがない。全て一人で背負わなければならないのだから、歌もダンスもしゃべりもなるべくうまくなければならないので、当然グループアイドルよりも超越性(カリスマ的要素)が必要になる。しかし、一人なので当然メンバー間でのしゃべりが発生しない以上、観客との関係性を何らかの形でより強く作らなければならない。つまり超越性(それは「遠さ」の感覚を伴う)を保ちながらも、観客との関係性を作る(それは普通観客との距離を近くするベクトルである)必要がある。このジレンマ。
小池は「エア観客」という手法で、この問題を回避しているのではないか。「エア観客」の導入によって、あくまでMCの主導権は渡さず(そして観客とのグダグダな馴れ合いを回避する)、その意味で小池の観客に対する優位性は現場において明らかである。(「タメ口」「呼び捨て」といったしゃべり方もまた、絶妙な距離感の創出に一役買っていることは間違いない。)
しかし一方で、観客のガヤも時には拾われるので、小池とファンは決して遠い関係性にとどまらない。その象徴とも言えるのが、最後の曲前のフリ(「次が最後の曲です!」)に対する「やったー!」という返しである(参考:以下の動画の1:05以降 http://www.youtube.com/watch?v=iKIJhE41CaM)。ここで初めて、観客ははっきりと小池に反旗を翻すそぶりを見せる。基底としてある小池の優位性を前提として、ファンが時に能動性を発揮する。このくらいの安心感がちょうどいいのである。


こうした関係性、距離感の操作は、twitterでも見ることができる。小池は7月13日現在、小池関係のアカウント2つをフォローするのみで、ファンに対するフォロー返しをしないし、筆者が見る限り、ファンのリプライに対して応えることも一切ない。ただ他愛もないことを一方的につぶやいているだけである(もちろんここでは小池個人の意志を問題にしているのではなく、twitterの利用の仕方から小池美由というアイドルのスタンスを読み取るのである)。Twitterという誰もがアクセスしやすい、親しみやすいメディアで、しかしファンとは距離を取る。近そうで遠そうで、という関係性の創出。
twitterの利用の仕方、あるいはfacebookとかブログといった個人で発信できるメディアの利用の仕方(利用しているかしていないかも含めて)を見るだけでも、そのアイドルがファンとどのような距離感を創り、また関係を結ぼうとしているかが見えてくるだろう。)


ちなみに、テレビとの関連性で言えば、「ゴッドタン」を見た人は分かるように、小池の「エア観客」という手法はテレビにもうまく適応できている。観客の反応自体をアイドル自身の表現に取り込む「ライブアイドル」は、テレビに出演する際に必ずしもファンと一緒の出演とはならず、したがってアイドルの表現として十分ではない(しばしば何か寒くなってしまう)、という欠点を抱えることになる。しかし小池は常に「エア観客」を携えているので、ライブ会場でのパフォーマンスと、テレビにおけるパフォーマンスのギャップを小さくすることができるのだ。


以上を考える時、小池美由はプロのアイドルとしてすごい、と思う。距離感をうまく操作しながら、ファンを魅了する。たった数回行っただけ(そして接触イベの経験なし)でもこんな感慨であるから、小池の常連さんは小池のすごさをもっともっと知っていることだろう。


もっと小池の事知りたいな。
けどどうしたらいいんだろう?