PIP2回目

濱野智史さんプロデュースのアイドル、PIP(Platonics Idol Platform)のイベント2回目。

10分遅れで会場到着。曲途中だったので、終わりまで待ってから入場。70名ほど。イベント会場はスタイリッシュな会議室といった感じ。(日本技芸という濱野氏がリサーチャーを務める会社が会場でした。)メンバーは3名欠席。

まず披露した3曲は先日のデビューイベントと同じ。客層はこの間よりも文化人的な層から、アイドルファンの層に少し寄ったという印象。イベントは3グループがそれぞれ自己紹介をしては曲披露という流れ。その後、前回の個別イベントで集客の悪めのメンバーのテコ入れMCをはさみ、ソロコーナーで各グループから1名ずつ計3曲の披露、そしてハイタッチ。有料イベントとしては前回もやった似顔絵描きイベント、これは参加せずに会場をあとにした。


さて、気付いた点。今回は曲中でのMIX、コールが、少数の客によりかなりやかましく入った。MIXはいいとしても、かなり歌詞にかぶさる感じのコールもあり、けっして聞きやすくはない。ここらへんは、どういった客層を満足させるかという問題で、この現場がどこまでを許容するラインとしていくのか、それを運営側が明言するのか、あるいは運営の望むような応援文化が醸成されるようにアーキテクチャを設計していくのか、今後の動きを見守りたい。個人的には、今日のコールはうるさすぎた。
メンバーは、比較的のびのびやっているメンバーと、まだ緊張しているメンバーがいるが、総じて少しずつ表現力が上がっていくのだなと感じた。アイドル自身も、客も、そのメンバーの魅力がどこにあるか、売りは何かを探っている段階であって、そのギクシャク感は会場に適度に緊迫感を与える。この意味での安心感のなさというのは、グループ立ち上げ当初の現場に強い熱量をもたらす。
先週の個別イベントでお客さんがあまりつかなかったメンバーだけ、テコ入れのためにMCの機会が再度与えられた。おそらくAKBN0(現N0)とは違って、PIPは売上至上主義を取らないのだろうと推測しているが、メンバー自身のモチベーションのことを考えても、お客さんがあまりつかないという事態を放置していくわけにはいかないのだろう。そのMCでも、キャラが比較的立っているメンバーと、苦労しているメンバーがいたような気がする。濱野さんは面接して採用した立場だから、彼女たちのいいところをよく知っているわけで、そこを引き出そうとするが、まだまだ緊張してしまったりで、うまく出なかったりする。そういう場面を見ると、プロデューサーが育てないとアイドルらしくなっていかない、という教育の側面を感じることになる。実際にアイドルファンという立場からしても、こうしたらいいのに、と思うことはある。たとえば今日のMCで書道が特技と明らかにしたメンバーがいたが、それをプロデューサーの濱野氏が知らなかったということがあった。なぜ面接で書道の件を言わなかったのだろうか。もしかしたら、ファン個人個人に書道でメッセージを書いてプレゼントする、というようなイベントができるかもしれないのに。アイドルの魅力は、接触イベに重きが置かれる以上、そのパーソナリティにあって、ビジュアルという分かりやすい条件を満たさなくても、いくらでも人気を獲得する術はある。そのことをアイドル自身が学び、実践していく場が接触現場なのだろう。このようなことを考えると、どうしてもメンバーにアドバイスをしたくなる気持ちも起きるけれども、それってもう説教厨の始まりなんじゃないか、と思った。だからたしかに、アイドルに説教をしたくなるファンの気持ちは理解できる。
濱野さんがMC中に、メンバーと一緒にジョギングをするイベントも考えている、と言っていたが、たしかにアイドルのイベントはもっともっと多様化していい。すでに一緒に走るイベントはN0が確かやっているし、AeLL.の開墾イベントの例もあるし、作った料理を食べられるJewel Kissのイベントも印象深い。アイドルは感情を揺さぶられる体験のハブとなればいいのであって、その体験が歌とかダンスとかの鑑賞にとどまる必要はない。その意味で、アイドルイベントはまだまだ多様化するし、面白いものが開発されるに違いない。もしかしたら、そのような形でイベントを多様化していくこと自体が、アイドルのセカンドキャリア問題を解決する手段になるかもしれない。いろんなことやらせた方が面白いし、その方がメンバー個々の魅力を発見できるし、アイドルにとっても何で飯を食うかの判断がしやすくなり、またスキルを磨くきっかけにもなる。
残念ながら手持ちのお金が全くないという状況で、似顔絵イベはパスして帰途についたが、今度は必ず個別イベントに参加したい。さすがにこのアイドルを、接触体験なしで語るのは片手落ちである。

5/17沼津、全日本アイドル選手権

さて、いまさらながら、一月前の5月17日に沼津で行われた全日本アイドル選手権の感想を。
公式サイトはこちら→http://www.alljapan-idol.jp/


このイベント、運営サイドからすれば集客大失敗のイベントで、まあ1週間前になってもまともにタイムテーブルも出てこないようでは、と思っていた通りの客入りでした。これが首都圏ならいざ知らず、新幹線を使わなければ首都圏から2時間以上は確実にかかる場所でのイベントで、詳細が直前まで分からないのはきつい。
当日の電車遅延もいろいろあって、自分が着いたのは開演から1時間以上経過した12時過ぎ。チケットもぎりのところでもなんだか手際が悪かった。よく言えば手作り感というか、まあ、文化祭感というか。
中に入ると、入れようと思えば5000人くらい(もっとかも)は優にいけちゃうような大ホール。それをいくつかのスペースに分けていた。メインステージの中心から花道が伸び、その先にはなぜかプロレスのリングが。ホール後方にはチェキ撮影のためのスペースや、カフェ(といってもテーブルが並べてあるだけ)スペースがある。



▲カフェスペースからメインステージを望む。とても広いホール。



ちなみに隣のホールは入場無料で、地域の人々の歌やダンスなどの披露の場になっており、いろいろな出店もあった。まさに文化祭のノリ。
メインステージに話を戻すと、自分が到着した時点で、メインステージ目当てに集まっていた人は60名程度か。地元の人、アイドルファン、カメコさん。

お目当ては水戸ご当地アイドル(仮)とLe Siana。まずは水戸のパフォーマンスから。
水戸も1年半の間にメンバーが結構入れ替わってしまった。歌唱力とかダンスに際立ったものはないが、曲がよいのと、メンバーのほんわかした雰囲気がいい。



水戸ご当地アイドル(仮)



▲まりなっぴ(左)


水戸っぽ(水戸のヲタ)が少なく、というのも水戸からは4、5時間はかかるので仕方ないのだが、完全にアウェー状態でのパフォーマンス。入るべきところでのメンバーコールが入らない、水戸ご当地ちゃん漫遊記の最後の土下座をやらない、という状況はメンバーたちにとってやりづらそうだったし、それはメンバーにメンタル的な影響も与えるだろう。こういう現場を見ると、アイドルがファンとの相互関係で成立していることを再認識できる。その意味で、然るべきファンの応援文化は必要だと言える。
その後、なぜかプロレスリングに移動しての変顔対決というのがあり、これは猛烈にくだらなかった。しかし悪くはなかった。



▲変顔対決



入場の時にコイン(というかいろんな色のチップ)を2枚もらうのだが、それはチェキ撮影とかカフェに使用できる。自分は1枚を水戸メンバーとのチェキに使った。1枚を後でカフェで使うことになった。

奈良のアイドルLe Siana。こちらはしっかり踊る。美しく踊るというよりは、元気に、強く踊る。そのエネルギーが圧力となってこちらの身に迫ってくる。とてもよい。



▲Le Siana、イントロのシーン。



さて、メインステージとリング以外の、要はホール後方において展開していた各企画は、決して機能していたとは言えない。チェキは、アイドルによってはあんまり撮るファンがいないもんだから、持ち時間が終わる前にアイドルがその場を離れてしまうこともあったし、記者会見的なコーナーでは、メインステージの音が大きすぎて、そこでの会話がうまく通らなかったり、そしてカフェはアイドルが飲み物を注ぐのだけど、別に会話が楽しめるほどの一定の時間をとるでもなく、なんとなく飲み物を注いでいるという感じであって(さらには並べられたテーブルの上に飲み残しのカップが多数置かれていて、見栄えのいいものではなかった)、一言で言えば、それぞれの企画があまり「立っていなかった」ということだ。それは逆の言い方をすれば、ファンとアイドルがぐだぐだの雰囲気を楽しめる場でもあったということで、その意味では現場に慣れたアイドルファンにとっては天国のような現場であったかもしれない。なにしろ入場者が少なくて、ビラを配りたいアイドルがなんとなく手持無沙汰になってしまう様子すら見られたのだ。



水戸ご当地アイドル(仮)、撮影ブースにて。



というわけで、イベントとしては失敗気味であったし、一部のアイドルにとってはなかなか難しいイベントになってしまったかもしれない。自分が感じた一番の問題は、隣のホールで行われた無料の地域イベントと、有料のアイドルイベントがうまく橋渡しできていなかったのではないかということだ。地元民が気軽にワイワイとホールに集まってくる雰囲気というのは正直なかった。もしかしたら沼津周辺の住民に安くチケットをまわすという試みが(もしされたとしても十分には)なされなかったのかもしれない。本来は地方のショッピングモールや祭りで繰り広げられる地域住民とアイドルとファンの邂逅が、このイベントではうまくいっていないという印象を受けた。主催者側は、それぞれのイベントを隣り合うホールで開催した以上、その混ざり合いをある程度意図していたはずなのに。(自分は15時半までしか会場にいなかったから、その後で何か違った展開になったのかは知らない。その辺のところを知っている方がいたら教えて下さい。)


他に気になったアイドルについても記しておこう。勉強不足で知らなかったアイドルとして「スルースキルズ」というグループを知った。「罵っていいアイドル」というコンセプトは斬新だが、そこにも作法というのがあるのだろうな、と推測できる。つまり、いくら罵っていいという設定のアイドルであろうと、結局のところ好き放題罵ることはできないだろう。この問題は、日を改めて考えていきたい。


当日の他の現場のイベントも含め、地方アイドルの出演するイベントの集客力に陰りがあるのではないかという問題提起もツイッター上で見ることが出来た。これだけ地方アイドルが乱立すれば、どの現場も盛況であるということは考えづらく、なかなか難しい問題である。
しかしそれよりも、この閑散とした現場において自分が気になってしまったのは、「地方アイドルが何をゴールにするか」という問題である。5年前であれば、アイドルが途中でやめる常套句は、「学業に専念するため」というような、(真偽はともあれ)学生という立場を利用したものであったが、いまや就職のためとか、就職活動のためといったものも珍しくない。アイドルが長寿化、あるいは多様化した結果の高年齢化のせいとも言える。基本的には、アイドルと学業は両立可能だが、アイドル稼業と別の仕事は両立不可能である。
アイドルになる敷居が低くなり(それは「アイドルのアマチュア化」と言ってもいいだろう)、またアイドルを比較的長く続けることが可能となった現在、アイドル業を、人気が無くなってきたから(儲からないから)というようなやむにやまれぬ理由でやめることが相対的に少なくなってきたと言える。そもそも、地方アイドルが獲得できる人気の規模はたかが知れている。だから、アイドルを続けるか辞めるかという選択も、アイドル自身に委ねられてきていると言える。高校を卒業するタイミング、あるいは大学卒業を前にしてその先の身の振り方を考えるようになった時、いつまでアイドルを続けるかということを否が応でも考えざるを得ないだろう。実際には、メジャーなアイドルになって将来的に芸能人として生きていくことを現実的な目標として設定できる地方アイドルはけっして多くないだろうという現状がある。
もちろん、地方アイドルの魅力はその目的の多様性にあるとも言える。メジャーになりたいという野心を抱いたアイドルもいれば、地域活性化という目的を全うしようと健気に活動しているアイドルもいれば、部活のノリで、人前でパフォーマンスをする楽しさを青春時代に味わえればそれで十分だと思うアイドルもいるだろう。しかしいずれにしても、地方アイドルのまま、人生を生き続けるというあり方はいまのところ成り立たない。(地方のテレビ局を中心に活躍する芸人のように、生き残る道もないとは言えないだろうが。)


だから、ぼくは20歳を超えた地方アイドルを見ると、本当に切なくなってしまうと同時に、なんだかもう感謝の念を感じずにはいられない。それが単なる彼女自身のモラトリアムだったとしても、アイドルをしようというその選択が愛しいのだ。週末ごとに地元で、あるいは首都圏までわざわざ出てきたり、他地域にまで遠征して、そんなに多いわけでもないファンや他の地域のアイドルファンの前でパフォーマンスをする。そこには楽しさも、時にむなしさもあるかもしれない。それでもアイドルをする。アイドルを続ける。彼女たちの将来を考えた時に、いつまでもアイドルやってらんないでしょ、と思いながらも、アイドルファンの性で、いつまでもアイドルでいてほしいと願う。そんな切なさがある。


何を言いたいかというと、水戸ご当地のまりなっぴ頑張れ。

アイドルをつくるアイドル、Platonics Idol Platform。

新生アイドルグループ「PIP: Platonics Idol Platform」初お披露目イベントに行ってきました。その感想を。

批評家・社会学者の濱野智史さんがプロデュースするアイドルということで、客層は、おそらくだが濱野さんのことをそれなりに知っている人だったのではないかと思います。アイドルファンがふらっと来る、というより、物申したい系のクセのある面々(自分含む)が来ていたような気がします。今後どのような客層を相手にしていこうとするのか、注目です。
アイドルのコンセプトは、「アイドルをつくるアイドル」。「「アイドル」という素晴らしい文化を、これからも経済的にサステナブルな形で存続させること」を目指し、アイドルの中から、ゆくゆくはプロデューサーとして独立する人材を育てていったり、最終的には政治家するというようなアイデアもあるようです。先日の下北沢B&Bのトークイベントでも明かされましたが、構想が大規模で、単なるアイドル産業を超えた、政治・経済・社会といったスケール感があり、冷静に考えると、どこまで本気なんだこれは、というようなプロジェクトではあります。しかしこのプロジェクトは、これまでのアイドルが抱えていた問題をどうにかして乗り越えようとする意欲的な試みであって、(成功するにせよ失敗するにせよ)面白いと思います。


さて、イベントは濱野さんの説明が終わった後、便宜的に3つに分けられたグループが順番に一曲ずつ披露。まだオリジナル曲がないので、AKBとNMBとえび中のカバー。その後選抜されたメンバーと全メンバーでカバー曲を歌って、ライブは終わり。生歌でしたが、歌えているメンバーと緊張して声が出きらないメンバーと。自己紹介一つとっても、人前で何かすることは全てパフォーマンスであって、慣れてないとギクシャクするのだというのを目の当たりにしました。あ、この感じ久しぶり、と思いました。アイドルのデビューイベントに行くのは、2010年のAKBN0(現N0)や、2011年の放課後プリンセス以来。
こんな少人数の近距離のイベントでは、それぞれのメンバーの様子はもしかしたら自分しか見てないかもしれない。あるいはメンバーが自分だけを見てくれる瞬間があるかもしれない(アイドルと目が合うかもしれない、というのは特に小規模のアイドル現場の強い訴求要素であるように思います)。自分にしか気づいていない表情が、仕草が、意味があるかもしれない。その可能性の魔力があります。で、言うまでもなくそれってAKBを初めとするアイドル現場の魅力の大きな要素なのでした。AKBの現場に行かない自分は、今日実感として、AKBの劇場に足しげく通う(通っていた)ファンの気持ちを理解することができました。
接触イベは、ハイタッチ会と、握手会と、似顔絵描き会。握手会は3グループに分かれての実施。まだ客も、どんなメンバーがいるのかよく分からないので、探り探りといった感じ。似顔絵会も楽しそうでしたが、自分は遠巻きに「どれどれ…」というようにイヤな顔をして様子を伺っておりました。3グループに分けての握手会は、やはり自分のグループに握手に来てくれると純粋にうれしいようで、自然と、自分たちのところに来い、という競争のようになってきます。デビューしたてのアイドルのそういった真っ直ぐな熱のようなものは、見ていて胸を打たれるものがあります。

来週もまたイベントがあるようですが、当面の興味は、アイドル人気を結局のところ左右させる楽曲をどうするのかという問題。あるいは、楽曲に依存せずに人気を持続させるという革命を起こせるかということです。



▲総勢22名。ひとクセありそうなメンバーもいて、面白いです。



あとはいろいろと思うところを。
「最先端のICTを活用することで<距離を縮める>ソリューションを展開していく予定」という話の絡みで、(正確には忘れましたが)「メンバーの心拍数に合わせた振動をスマホに振動として送る」という可能性について触れていました。これはアイドルをめぐる重大な問題を孕んでいるような気がします。
つまり。アイドルのあらゆる表現は、アイドル自身の意志によって制御しうるパフォーマンス(演技)だと自分は考えています。もちろん時にアイドル自身の意志を超えた、あるいは逸脱した表現をしてしまうことはあるにせよ、歌やダンスやMCは、アイドル自身が制御できるものとして想定されうることです。ところが、心拍に関してはそうはいかないでしょう。こうした、自らが制御できないものすらアイドルの表現となっていく時に、将来的には、なんらかのアイドルの心の中(たとえば今日はモチベーションが低い)とかいうことがなんらかの形で可視化されてしまう可能性(おそれ)はあります。
しかし一方で、そもそもそんな「本心」のようなものがそもそもあるのか、あったとしてそれを科学技術によって客観的に判断できるようになるものなのか、という問題はあります。これは心の哲学、みたいな分野の話でしょうか。
いずれにしても、「心拍」という、演技のしようのないものが、アイドルにおいてどう利用され、どのような解釈の手がかりとなるのか、興味深いものがあります。思考実験として、たとえばファンとの1対1の接触の場面でアイドルの心拍数が分かったとして、「心拍が速い」から自分にドキドキしている、という解釈もあれば、「心拍が遅い」から自分と話していると心が安らぐのだ、というように、都合のいい解釈の可能性は常に残されているような気もします。


他に、このプロジェクトに期待すること。
アイドルは、どうしても一生アイドルでいることが難しい存在であるために、「アイドルのセカンドキャリア問題」というのがあります。アイドルをやめた後、どうやって生きていくのか。今までは何らかの形で芸能活動を続けていくという可能性しかなかったように思いますが、プロデューサーとか、政治家といった可能性を追求するのは面白いことです。
また、このプロジェクトは日本各地や海外に広がることも想定していますが、地方アイドルの在り方にも一石を投じてほしいという思いがあります。アイドルが地域のコミュニティのハブとして機能する可能性はあるだろうかとか、高齢者に支持されるアイドルの可能性とか。とにかく、アイドルを通して身につけられるコミュニケーション能力というのを、都市部の若者を中心としたアイドルの世界のみで発揮されるものとして閉じてしまうのはもったいない気もします。
実際、AKB選抜総選挙結果を受けてメンバー個人個人が行う挨拶に、大勢の人間の愛憎をその身に引き受けるアイドルという存在の気高さとか覚悟とかを感じて畏敬の念を抱くという体験をファンでもない自分がしてしまう。これはやはりすごいことです。日本の政治家の多くよりも、アイドルの方が「言葉の力」という点では優ってるように思えてしまう。濱野さんもそうやってアイドルの力にあてられてしまったファンの一人でしょう。政治・社会・情報技術といったところへの目配せをしながら、どのようにアイドルプロジェクトを進めてくれるか、大いに期待したいと思います。

書評:幻の近代アイドル史: 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記

大変面白い本である。
アイドルへの関心が高まり、様々にアイドルを語る本も出版されているが、アイドルを「アイドル」という語の使用以前の芸能と結び付けて、「アイドル」が現代特有の現象ではないことを明らかにしてくれる、今までになかったであろう本。こういう本を待っていた。筆者のお名前は聞いたことがなかったが、笹山敬輔さんという方で、文学博士で現在はなんと製薬メーカー(内外薬品)の東京支社長をしているという。参考・ http://mag.sendenkaigi.com/kouhou/201407/cat444/002544.php


筆者は「アイドル」に、受容者側の在り方に着目した定義を当てはめる。すなわち、「若い男性を中心に、大衆が熱狂的に支持する人物」ということになる。こうすることで、1960〜70あたりを起源とすることの多い日本のアイドル史は、「さらに遡ることができる」。むしろ、「今日的な意味での「アイドル」に近い存在は戦前にこそ容易に見出すことができる」という。ここで言う「今日的な意味」とは、「現場」に重きを置いた、「接触」を大きな訴求力として人気を博している、一言で言えば「会いに行けるアイドル」という意味である。


さて、この本の特徴や、この本で述べられていることを簡単にまとめると、以下のようになる。
まず、特徴として、現代のアイドルファンが使うような用語をそのまま使っている。これは意図的にそうしているのだが、「ヲタ」はいいとして、「地蔵」といった、多分アイドルファンでなければ知らないような言葉も注釈なしで使われる。こうした表現をすることで(つまり昔の事象に現代の用語を使用することで)、今も昔も変わらないということを印象づけたいのかもしれないが、どうしても違和感はあった。
それはともかく、本書で述べられていることを1点に集約すれば、「昔から「アイドル」はいたよ」ということであり、その内容は大きく3点にまとめられる。
1.今も見られるアイドルに対する典型的な批判、つまり容姿ばかりで歌や踊りが下手であるというような批判や、客に対して媚びているというような批判は昔からあったということ。
2.「ペラゴロ」、「ドースル連」などと呼ばれる、今と変わらないようなどうしようもないヲタは多数いた。その多くが学生であり、勉学に励まずにアイドルに現を抜かしているということへの批判があったこと。
3.作家や評論家といった知識人がアイドルについてあーだこーだ言うのは昔も変わらなかったということ。


詳しくは本書をあたってほしいのだが、いくつか本書で挙げられている事例を紹介しよう。第一章は娘義太夫の竹本綾之助が主人公である。娘義太夫は「歌とせりふとナレーションとが渾然一体となった三味線音楽」のことである。
竹本綾乃助は十二歳でデビューした。「アイドルのデビュー年齢や活躍する年齢は明治の頃から変わらない。多くが、十代半ば頃には人気者となっているのである。」(P17)
熱心な学生ファンがいて、「ドースル連」と呼ばれた。これは曲のクライマックスで一斉に「ドースル、ドースル」と掛け声をかけたことに由来しているという。ちゃんと義太夫を聞いていないというお叱りが、当時からあったようだ。推しメンの自宅までついていくなどする、迷惑ヲタもいたようだ。
義太夫は、曲のクライマックスで、頭を振って熱演し、わざとかんざしを落とすというような釣り行為もした。「ファンたちは我先に争って拾おうとした」。
容姿は娘義太夫の人気の第一条件であり、太夫の目線はファンにとって非常に重要な演出であった。
今の2ちゃんねるにあたるものとして、新聞の投書欄が同様の機能を果たしていた。投書欄で「娘義太夫とファンの関係をけなし、彼女たちの容姿を揶揄し、手紙を無視されたことへの怒りをぶつける」(P27)ということもあったようだ。


第二章では奇術師、「松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)」が紹介される。容貌がよく、釣りテクニックにも優れた演者であったようだ。
天勝一座の演目は奇術に限らず、歌劇も多く含まれていた。「天勝一座のプログラムの雑多な構成と猥雑さ」が魅力ではないかと本書には書かれている。


第三章は浅草オペラが扱われる。浅草オペラは「アメリカ系ミュージカル・オペレッタ・ナンセンスコメディ・グランドオペラ、この四つの要素のごった煮であ」り、「「芸術性」などというものを無視した、浅草らしい何でもありの芸能だった」という。谷崎潤一郎曰く、それは「多少の廃頽的要素と異国情調との加味した小学校運動場的気分だった」。そして、河合澄子という歌もダンスも下手なメンバーが人気を集めた。
これはアイドルを考える上でも面白いことで、アイドルは芸能者でありながら、芸の本質とか技能というところとは別のところにも大きな魅力を有している存在であるということだ。
熱狂的な浅草オペラヲタは、「ペラゴロ」と呼ばれ、毎日劇場に通って、歌やセリフが聞こえないほど、推しメンの名前を叫んだ。旗を振ったり扇子を翻したりということもあったようだ。ブロマイドが販売され、「腋の下」と呼ばれるようなフェチ写真まであったというから面白い。


第四章は初期の宝塚。
「宝塚が成功したのは、少女歌劇というジャンルを生み出しただけでなく、地域に根付いたかたちで劇団を結成し、レジャー施設と一体の運営によって収益を確保していくというビジネスモデルを開発することにあった」。(P145)
ここで面白かったのは、宝塚をまねて、日本各地にご当地少女歌劇が生まれていったこと。今で言えばAKBの影響下で乱立していった地方アイドルということになるだろう。宝塚は清純なイメージを崩さなかったが、たとえば「大分の鶴見園女優歌劇で上演されたレヴュー『夏の踊り』は、浴衣や海軍のセーラー服で踊った後、フィナーレでは水着姿で登場した」というように、手っ取り早く売るには性的な魅力に訴えるというのは今も昔も変わらない。
またこの章では評論家青柳有美が瀧川末子というメンバーを推していて、瀧川末子を「我が瀧川末子」と表現し(まさに「俺の〜」と言うアイドルファンと同じだ)、他のメンバーを散々にdisっている様が紹介されている。


本書は面白いところが多すぎるので、つい紹介しすぎてしまった。アイドルに興味がある方はぜひ読んでほしい。先に述べたように、読めば読むほど、昔からアイドル的な存在がいて、その強い魅力にやられてしまったどうしようもないファンもいて、評論家や知識人もやいのやいの語っていた、ということがよく分かる本である。(できれば、本書のどの記述がどの参考文献に依拠したものなのか、詳しく示してくれるとよかった。各章に書かれている芸能について、より深く知りたくなったので。)


さて、昔も今も同じだ、ということからいま得るべき教訓は何か、ということを最後に考えたい。というか、本書終盤の記述を自分なりにまとめ直したい。
義太夫も、天勝一座の公演も浅草オペラも、当時熱狂的な人気を博しながら、正当な芸能史の中に位置づけられずに来た。逆に言えば、何でもありの「ごった煮」で、四の五の理屈をつけなくても、知識がなくても楽しめるからこそ大衆の人気を獲得できたということができるかもしれない。その分かりやすさの一つとして、「性的な魅力」ももちろん含まれた。だから芸能の権威を信じる者からすれば、そういった正統的でない芸能やその芸能に熱狂する者は批判の対象となっただろう。
これは悩ましい問題で、つまりもっとも多くの人を引き付けている現象が、その「ごった煮」性のためにどう論じていいか分からない、論じることが難しいということにもなる。その難しさから逃げて、単純にアイドルを性欲とか恋愛とかの文脈に収斂するものとしてのみ扱うのは、やはりアイドルの魅力を理解しているとは言えまい。理屈抜きに楽しめるもの(わかりやすいもの)が大衆の人気を獲得するが、それを理屈で扱おうとした途端にわかりづらくなってしまうという問題がある。
また、「アイドル」がどうしようもない人間を生み出しているのも確かだが、一方でどうしようもない人間の欲望の受け皿になっていることも否めない。本書の中にも、「アイドル」によって救われた者の声が引用されている。この意味で、やはりアイドルには宗教的機能があると考える。
うん、これ以上考えが進まない。ともあれ、アイドル(的な存在)が持つ、多くの人を熱狂させる力については、単純化することなく、真摯に考えていくべきと思う。少なくとも、100年の間日本で繰り返し現れてきたアイドル的現象であるから、そこには少なからず普遍性があると考えてよいのではないだろうか。

5月4日、アイドルイベント感想

5月4日、久しぶりにアイドルイベントをはしごした。その記録と感想を。


まずは池袋東武屋上のGALETTe。アイドル界隈では名が売れている印象だったので混んでいるかと思いきや、70〜80名くらいしか来ていない。いっぱいだったら階段上がってステージ右手から見下ろす観客も出る場所なのに、ステージ前の緑じゅうたんの前半分くらいで収まるくらい。改めて考えると、ゴールデンウィークは無銭現場も大量にあって、動員するのは結構大変なのかもしれない。
それにしても、もっとファンが集まっていいくらい、パフォーマンスはすばらしい。ちゃんと踊るし、何より表情がいい。個人的にはのの子さんの困り顔がいい。メンバーの身長差があるのも、距離を置いて見た時の面白さになって、いい。
終演後、Twitterで感想を書いたら、エゴサーチしたであろうメンバーに即座にふぁぼられるという事案が発生した。「バニラビーンズとアリス十番以来だ」ということをツイートしたら、アリス十番のメンバーが即座にフォローしてくる。なんだこれは。何ごっこだよ。面白いような、哀しいような気分になる。泥臭さとか抜け目なさとも言えるし、「そこまでしないといけない」という悲壮感も感じうる。これは難しい。
その後「プレゼント◆5」の公演を見てから、遅刻気味でラクーアスマイレージイベントへ。GALETTeのイベントと比較できないくらい人がいたのだけど、当日は東京ドームでBIGBANGのライブがあったようで、また他の目的で来た人が通りかかる場所でもあり、観客が多くなりやすいところではある。遠くからで、あまりよく見えないまま終わってしまった。
続いて、秋葉原に移動してGALETTeのイベントに参加しようかと思った(くらいに昼のイベントはよかった)のだが、時間を勘違いして参加できず。急遽アソビットシティ地下のJK21のイベントに参加した。これも70人くらいか。3年前に見た時と変わらないメンバーも残っていて、感慨深かった。



さて。
アイドルブームが続いて、割と、続いている。ここまで続くと、ブームという言葉もそぐわない程度には続いている。であるならば、AKBとかももクロとか、単体でどうこうというよりも、アイドルという存在形態が受け入れられやすい時代だと思った方がよいのだろう、やはり。
そんな中で、各アイドルグループの寿命も長くなっている。パッと思いつくだけでも、活動開始が2006年のアイドリング!!!、2007年のバニビ、2008年のももクロアフィリア、2009年のスマイレージ、えび中、PASSPO☆、Dream5、2010年のスパガ東京女子流さくら学院、BiS、チアチア、N0などなど…。全然網羅してないけど、これだけ見てもみんなよく続いている。もちろんグループによってメンバーチェンジも頻繁であったり、正直運営費がきつい、というかメンバーの給料が最底辺のグループもあるだろう(先日もバニビメンバーの格差問題がTwitter上で話題に出ていたが)。それでも、5年以上続いているアイドルが多く存在しているということに対して、女性アイドルの長寿化という言葉を当ててもおかしくはないだろう。
地方アイドルについても、2007年のまなみのりさ、2008年のJK21、2010年のDLH、とちおとめ25、OS☆U、ひめキュンといったグループが長い(Negiccoとりんご娘は別格)。
以上は、スマイレージJK21を久しぶりに見て、アイドルグループの長寿化を改めて感じたお話。
(参考:3年前の記事「大阪のアイドル「JK21」を見てきた」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20110208


一方で、個々のアイドルを見ていけば、ブログであっさりと卒業や脱退を発表するアイドルも多い。それだけアイドルが多いことの表れでもあるのだが、アイドルになることの障壁も低ければ、アイドルからやめることの障壁も低いのが現代アイドルである。特にメジャーな人気のアイドルでないなら、アイドルをやることは部活や習い事をやるのと同様の感覚があるかもしれない。


このようにアイドルの長寿化と短命化という両極があるが、大ざっぱな傾向としてはメジャーなアイドルの寿命はそれなりに長くなり、人気のないマイナーなアイドルの中にはすぐに辞めるアイドルもいる、ということだろう。そうした中で、「アイドルをやめてからまた戻る」、あるいは移籍するというような例も多くなっている。先述のGALETTeなんかはその典型であり、元HKTや元CQC’Sや元Chimoがいる。面白い。
以上のことは批評誌『アイドル領域Vol.4』の総論でも2年前に論じたことなのだが、2年経っても状況は変わらないどころか、ますます流動化しているようにも思える。


さて、一部にはアイドルブームが終焉に向かうと捉える向きもあるようだが、すぐに終息するとは思えない。これは「ブーム」という言葉の捉え方にもよるが、自分としてはそれが文化として成熟・定着するかということに興味がある。
先日Twitter上で話題になっていた記事、「ローカルアイドルブームは終わるのか」http://ppropane.tumblr.com/post/84862359066 は非常に示唆に富むもので、NegiccoLinQ、DLH、ひめキュンに続く存在が出てこないことを危惧している。それはそれで一定の説得力がある。それでも日本各地で地方アイドルはまだまだ新しく生まれてきている。この記事は、「ブーム」ということについて、経済面とか、都会から人を呼ぶ側面、あるいは地方アイドルはメジャーを目指すべきという結局のところ都会(東京)中心主義的な立場と読めなくもない。その視点は大事だとしても、地方アイドルを考える時にその側面だけではなくて、あくまでマイナーリーグ的に細く長く続ける可能性があってもいいし、別に都会から人を呼ばなくても、その地方でそれなりの知名度を持っていればいいし、あるいは少女が青春時代を一時捧げる部活やクラブ活動のようなものであっても構わないと思われる。いずれにせよ継続的な活動にはお金がいる、というのは現実なのだが、そもそも、長くやるのがよいのかどうかという問題もあり、一筋縄ではない。
最低限の人員と設備があれば、名乗りによって容易に「アイドル」に参入できるようになった現在、いままでは「アイドル」と名乗らなかった人々までもがアイドルを自称するようになっている。以前だったら地方のキャンペーンガールとか、ミス○○と呼ばれていたかもしれない存在がアイドルを自称するようになったり、芸能スクールに通う子たちが歌手やダンサーやダンスボーカルユニット的な呼称をやめ、アイドルを名乗るようになっているという側面もあるだろう。こうした側面を見た時に、地方アイドルの目的とか条件を定義づけすることの困難にも容易に気付く。
アイドルという言葉の価値を皆が信じて、それの周辺領域にいたような存在がどんどんアイドルに名乗りを上げる。その中心点へ向けての引力を、「アイドル」という言葉はまだ失っていないように思える。
他の呼び名を持っていた存在が、「アイドル」を名乗ることによって、その少女は見ることと見られることが織り成す舞台に上がることを宣言する。当人にそのつもりがなくても。アイドル現場とは、身も蓋もない言い方をすれば「少女をジロジロ見たり触ったりすることを公然と許される空間」である。そうした舞台が全国各地で繰り広げられていること。これには倫理的な議論も起こるだろうと思うが、また一方で、地方アイドルは最も手軽に、地方における物語のハブとして機能させる可能性をもった「メディア」でもあるのだ(この辺の議論は『アイドル領域Vol.4』収録「地方アイドル論」斧屋も参照のこと)。


とりとめもない話になってしまった。要は、地方アイドルって言っても、いろいろいるし、いろんなあり方があるだろう、ということだけだ。一口に「アイドル」と言うが、その言葉の魅力、引力によって、アイドルの領域は大きく広がっている。そんなことを、久しぶりにアイドル現場をはしごして、改めて思い出したのだった。



アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

モーニング娘。'14 コンサートツアー2014春 〜エヴォリューション〜

中野サンプラザモーニング娘。2014春ツアー「evolution」を観てきた。「evolution」というツアータイトルの通りのすばらしいコンサートでした。もう行けるところが限られているけど、もう一度行きたいと思わせるだけの、「強い」コンサートでした。感じたことを書いておこうと思います。


すでに「フォーメーションダンスが魅力」という打ち出しが一般層に一定の浸透をしたおかげなのか、アイドルファンの裾野が広がったせいか、中野サンプラザ後方は、2〜3割が女性客だった。
ダンスの途中でメンバーの並び方によって人文字を作るところを、上からの映像でスクリーンに映し出す手法は定番となった。「0」とか「ハート」とか「◇」とか「△」とか「×」とか、あるいは翼の形を作り出す。自分が以前見た時と違って、スクリーン上では人文字(たとえば「0」)を上からのアングルで映しながら、さらにその上になぞり重ねるように「0」という文字を映し出す。
これはおせっかいと言えばおせっかいで野暮とも言えるが、分かりやすい。よくモーニング娘。を知っている観客ばかりであれば野暮と言えるが、ここではこういう形を作っているんだと初めて知る観客には優しい。自分の感覚では、数千の規模の動員から、一万超えの動員まで増やす際に、確実にこの「分かりやすさ」が必要になってくる。現在万単位で動員ができるAKBとかももクロのライブは、(最近は行ってないけど)この分かりやすさについて入念に仕上げてくるという印象がある。
この「分かりやすさ」という要素とともに、今のアイドルシーンではファンの声をうまく取り込んでいく(ファン側の表現を取り入れる)ということが重要となっている。しかしハロプロはAKB等が巧妙にやってきたこの手法を、控えめに言っても2〜3年くらい遅れて後追いをしてきたという印象である。そして巧妙でもない。
ここで重要な点は、アイドルの人気は、アイドルという言葉がそこに収斂する人間の身体とそのパフォーマンスだけではなく、舞台装置全体あるいは売り出し方の戦略といったものの結果生まれるイメージの総体によるものであるということだ。だから、いかにパフォーマンスがよくても、それだけで人気を獲得するのは難しい。逆に言えば、パフォーマンスの良さは人気の絶対条件ではない。アイドルにはいろいろな魅力がありうるということだし、アイドル現場の楽しさは生身のアイドルの身体のみに依存するものではない。
ファン側の表現を取り入れるということでは、今回の現場では、たとえば開演前のスマイレージ武道館公演に関する映像で、「スマイレージ最高!」と叫ぶヲタのコールが取り入れられていたことが印象に残った。この程度のことでさえ、以前(おおよそ7〜10年前くらいをイメージしています)はなかったように思う。とにかく、以前は「ヲタ」的なものを公式が発信するものからは巧妙に排除しようという空気を感じていた。ともあれ、こうした現代アイドルの「基本」を、アイドルの「主導権」を失ってしばらくしてようやく少しずつ取り入れるようになった。
モーニング娘。が新たに人気を獲得する過程では、こうした現代アイドルの戦略を遅ればせながら取り入れたこと、そして取り入れながらも「フォーメーションダンス」という他のアイドルとの差別化をはっきりと打ち出せたことにあるだろう。


それはさておき、ライブの感想に戻ろう。


「HOW DO YOU LIKE JAPAN?」で、「米がうまいぜ」を鈴木香音が歌うことを支持したい。道重と同様、彼女も「残念」をキャラにして知名度を獲得しようとしている。そこに葛藤がないわけではないだろうが、ファンとしては応援するよりほかにない。キャラは離脱可能だから、無理があるなら続ける必要もない。
(以前のモーニング娘。の中での残念なキャラを挙げるなら圧倒的に保田圭だろうが、鈴木との違いは、芸人からいじられることを必要としているかどうかというところにあるように思う。保田は芸人(主に石橋貴明)からツッコまれ、罵倒されることで成立していたが、鈴木は自ら芸人化することで、キャラを自律的なものとしているように思える。)


最近の曲が中心となるライブ前半、そう言えば、なかなかPPPHが入らない、メンバーのコールが入らないということに気付く。曲に入れている隙間がない、入れる余地がない。めまぐるしくフォーメーションが変わるので、割と目が離せない。曲調にもよるが、コールとかましてやヲタ芸が入る隙がない。それはある意味ではファン文化が薄まるということであって、それは一般向けにはよい。


表情の力。最後列で見たので、スクリーンに大写しになる表情の方をよく見ていた。道重さんの表情がいつもしっかり決まっている。セリフ担当なんて言われることもあるが、表情担当ということだけでも十分なくらいに完璧に見える。「彼と一緒にお店がしたい」の道重の表情と声は絶品だ。譜久村、小田、鞘師の表情もいい。そうした中で、生田は抜かれた時の決め顔がどうもうまくないように見えてしまった。先日のGALETTeでも思ったが、表情の演技は重要だ。特に自分は困り顔に弱いということも再確認した。あと、「坊や」の時に頭をなでるしぐさをする譜久村、表情も含めて、うん。


ライブ中盤で、過去の曲をアレンジし直した(アップデイトした)ものをやるが、既存のダンスも変えていくのはいい。「恋レボ」も 「てるみーてるみー」のあたりの振りが変わってて、いつもの振りをやりたい、という気持ちと、新鮮という気持ちが複雑。一般層を楽しませるための措置として、ある程度昔のおなじみの曲をやるのは致し方ないとして、それをアップデイトすることで、観客全員を飽きさせないように、そして進化していることを見せるようにしている。


カップリングのメドレーで各メンバーに見せ場を作った上で、終盤はまた最近の曲を。現代アイドルの特徴として、「自己言及性」は外せないキーワードだが、モーニング娘。も2012年以降、シングル曲で自己言及的であると読み込むことができる楽曲を出してきた。「5作連続オリコン1位」とか、「最大の功労者である道重さゆみ卒業」とか、分かりやすい「物語」が明らかになっている今、それらの曲を聞くことで感慨が増すということは確かにある。


パフォーマンスを見せることに主眼を置き、MCを極力排する。それによって、アンコール後のメンバー一人一人のMCにメンバーの特徴が凝縮されて、胸に迫る。覚悟というか一本筋の通った強い意志を感じて、なんだか泣きそうになってしまった。なんかみんな、真面目。まーちゃん以外。鞘師は、小田とのデュエット曲で、昨年よりも自分のパフォーマンスに余裕が出てきたという進化を誇らしく語り、飯窪はニューヨーク公演に言及しながら、アイドル文化を海外に発信する気概を示した。


あ、会場にいて、彼女たちをネタ化する視点に立つことができない。メタ的な立場に立てない、と気づいた。パフォーマンスに、その強い意志に、ベタに魅了されなさい。ベタに魅了されなさい。そういうことになっている。これはこれで、心地いい。よい命令をされている。ネタ化できる部分って、まーちゃんと、MCのコーナーと、香音さんは最後列から見てもすぐわかる、ということくらいで、すごいベタ。ベタで全然いけちゃう。それを語弊のある言い方をすると「アイドルがアーティスト化する」みたいなことになるんだけど、そうじゃない。そういう言い方でごまかしちゃいけない。じゃあどういう言い方をすればいいのかな。


時空を超え 宇宙を超え」のよさは何だろう。何年かに一度、聞いていて泣きそうになる曲に出会う。「笑顔に涙」なんかがそうだった。取り立てて自分の身に引きつけて考えられる歌詞があるわけでもなく、ストレートに娘。の自己言及曲と読めるわけでもないのに、音楽の力で、泣きそうになる。久しぶりにアイドルのライブをしっかりと見て、語れないこと、言葉にできそうにもないことを久しぶりに経験して、でもそこから再スタートして、やっぱりアイドルについて今後も語っていきたいと思った。

さやわか「一〇年代文化論」感想

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

さやわか「一〇年代文化論」を読んだ。考えたことをつらつらと。
本書は、「残念」をキーワードに、現代文化を論じるわけだが、「残念」の用法が2007年あたりを境に変わってきたことに文化の転換を見出している。
アイドルに関して言えば、2007年と言えば、モーニング娘。を中心とするハロプロ一強時代が終わりを告げ、PerfumeAKB48といったアイドルが人気を獲得していく過程でもある。本書ではPerfumeについて大きく取り上げ、彼女たちに見られる、「ステージ上と普段のギャップ」を両方見せてしまう、普段という「残念」な部分さえも見せてしまう、という自由なイメージを2007年以降のアイドルシーンの新しい風潮としている。
以後、キャラ芸人についての事例も取り上げながら、残念を「キャラ」として提示できるようになったという議論がなされている。これについてぼくはどうしても思い出してしまうことがある。


自分は、アイドルの実存をめぐる問題について、表層に現れるアイドルイメージを複数確保することで、アイドルの実存的問題を回避することを検討してきた(参考「複相化戦略」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080811)。たとえばモーニング娘。だった久住小春が、アニメキャラである月島きらりという役柄を演じる時、「月島きらり」としての現れと、アイドル久住小春としての現れがお互いを相対化し、「素の久住小春(のようなもの)」への視線を発生させづらくすることで、アイドルの素(のようなもの)の部分を守ることができるのではないか、というように。こうすることで、肥大化してしまうアイドルのイメージと、アイドルである生身の人間とのギャップに苦しむことを回避できるかもしれない。

逆に、アイドルを本名のままで(一つの名前やキャラだけで)活動させるリスクをぼくは危惧していた。そしてその一番の犠牲者として加護亜依をどうしても思い浮かべずにはいられないのだ。加護亜依は肥大化するイメージを自分の身に引き受けすぎた、というのが自分の理解だ。
(参考:ケータイ小説「過誤・愛」 http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080409/1207772167 これは2度の喫煙騒動後に加護亜依が応じたインタビューを聞いて感じたことを書いた記事である。ところで、今回の記事では追究できなかったが、ケータイ小説と「残念」の文化の折り合いの悪さみたいのは感じていて、Wikipediaくらいでしか調べていないが、2007年あたりで盛り上がりを見せたケータイ小説と、その後の「残念」文化の広がりには、文化的な風潮の移り変わりを読み取ることができるだろうか。)


さて、2007年以降のアイドルは、こういった問題をするりと回避していっているように思う。簡単に言えば、「素」がキャラ化しているということで、また別の言い方をすれば、「素」のようなものも含めてキャラを横の関係として捉えていくということだ。あるいは、アイドルがキャラを自分でコントロールできるようになってきたということも言える。これは多分にブログやSNSといった個人で発信できるメディアが発達したことも大きい。
今振り返れば、ハロプロ一強時代は、アイドルイメージを強くテレビをはじめとするマスメディアに依存していたことは間違いない。したがって、アイドルイメージをアイドル自身がコントロールすることは難しかった。いま、個人で発信できるメディアの発達と、「会いに行けるアイドル」という言葉で分かるように現場というものがより重視されるようになったアイドルシーンにおいて、アイドルが自身のイメージ付けに主体的にコミットできるようになっている。そしてそれに長けていることが、人気を獲得する一つの重要な条件になってもいるだろう。
もう一度確認すると、アイドルがテレビ等のマスメディアが肥大化させる自己イメージと「素」とのギャップによって実存的な問題を抱える時代から、主にネットによる小さいメディアを駆使しながら、アイドルが主体的にそのイメージ付けにコミットしつつサバイブしていく時代になった。ざっくりと言うならこのような変化を指摘できる。
ところで、「素」の部分までをキャラ化するというのは、なんだか矛盾した言い方のように思えるかもしれない。しかしいまや、アイドルの「素」と「素のキャラ」は大きく乖離するものではなく、緩やかにつながったものとして捉えていくことができる(というかもう、「素」という言葉を大変使いにくくなっていることさえ感じる)。本書において引用されているももクロのインタビューを読んでいても分かるし、たとえば香月孝史「「アイドル」の読み方」(青弓社)の第4章「アイドルの「虚」と「実」を問い直す」も参考になる。これは我々のメディア利用を振り返ってみても自然に理解ができることで、twitterをやっている自分は、他の社会人としてのキャラとか、日常のキャラとは違うとしても、自然につながっていて、特に無理して何かを振舞っているわけではない。逆に無理したキャラ作りこそ、実存的な問題を呼び起こして、長持ちしない原因になってしまうだろう。

ハロプロに話題を移すなら、キャラの戦略的利用でのしあがったのが道重さゆみ嗣永桃子だと思われる。道重のことを話すなら、道重が毒舌キャラとナルシストキャラでブレークするのが2009年くらいである。自分を一番かわいいと思っている「残念」なキャラを作り上げることで知名度を上げ、『週刊文春』(文藝春秋)「女が嫌いな女」ランキングで2009年に10位という好結果(?)を勝ち取る。「残念」なキャラを作るのは、一長一短なところがあると思われる。短所は、それがそのまま道重の性格だと理解され、嫌われやすいということ。長所は、それでも自らのイメージをある程度自分でコントロールでき、「本当は〜なんじゃないか」という裏読みの視線を回避しやすいということである。


最近自分が現場に足を運んでいる舞台「プレゼント◆5」について考える。「プレゼント◆5」はアイドルグループをモチーフにした舞台で、物語上で存在するアイドルグループ「プレゼント◆5」とか「三日月」というのがいて、それを役者が演じている。いままで自分は、「三日月」のメンバー青羽要(あおばかなめ)は、役者である畠山遼によって演じられている、という縦のラインでイメージしていた。つまり「Aは、ほんとうはB」というように。でも、畠山遼さんのブログを読めば、それはそれでとても意図的に自己イメージを作っているところもある。そうであれば、いままで考えてきたことも踏まえると、全てのキャラを横のラインで捉えていく、という見方も可能かもしれない。つまりは、「CとかDとかいろいろ演じているけれど、根本にはEがある」という人間像・人格像ではなくて、「常にFとかGとかHというように、キャラを自然に使い分けていく」というイメージ。物理的な世界だけでなく、ネット上にも多様なチャンネルを持っている現代の人間像は、自然にそうなってきているんだろうなあ。本の内容からは離れてきてしまったかもしれないが、そんなことを考えた。

参考:畠山遼 OFFICIAL BLOG(http://ameblo.jp/hatakeyama-ryo/entry-11839776234.html
↑ここでは、畠山遼と青羽要は友達という設定になっている。演じる側と演じられる役柄が対等な関係性になっているのが面白い。



最後に。
昨日、Berryz工房の新曲のタイトルが発表され、オンエアされた。タイトルは「普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?」。ハロプロとしては決して多くはない、完全なる自己言及曲である。「アイドル10年やっちまったんだよ」と彼女たちが歌うとき、そこにはアイドルの長所も短所も味わい尽くしてそれを受け入れた「残念」という感性を感じ取ることができるだろう。
ちなみにアイドルの「残念」な自己言及曲の代表格であるアイドリング!!!「職業:アイドル。」がリリースされたのは2008年でしたね。



アイドル領域Vol.6

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アイドル批評誌『アイドル領域Vol.6』もよろしくね。
「プレゼント◆5」考察他、アイドルと「演じる」ことについての論考集。