書評:処女神 少女が神になるとき

処女神 少女が神になるとき

処女神 少女が神になるとき

ネパールの生き神「クマリ」についての本です。「ネパールのカトマンズ盆地では、一人の少女が三、四歳で「生き神」として選び出され、十二、三歳頃(初潮)まで神として君臨する」(P14)。


アイドルを宗教とのアナロジーで考えてきた自分としては、それについてのヒントがあるような気がして、興味深く読みました。
「アイドルは宗教のようなものである」という言明の難しさは、「アイドル」という語も「宗教」という語も、時代により人により場合により捉え方が変わってしまうということです。どちらも定まらないAとBについて「AはBである」というのは、どうしても粗い主張になります。
特に「宗教」という語は、キリスト教のような一神教(それも組織のしっかりしたもの)か、あるいは一部の新宗教のいかがわしいイメージが強いように思われます。そこが、どうしても議論をかみ合わなくしてしまうところもあるのではないでしょうか。宗教という概念について再考を促してくれると同時に、アイドルについても考えさせられる本です。



カトマンズ盆地にはいくつかの地域に複数のクマリが存在しますが、首都カトマンズのクマリは特別にロイヤル・クマリと呼ばれます。「ロイヤル・クマリに就任できるのは、カトマンズに居住する仏教徒のうちサキャ・カーストに属する少女のみで、年齢は三、四歳くらい」(P71)。クマリ選出委員によって、32の身体的条件(現在は厳しく適用はされないらしい)を参照して適切な少女を選ぶとのこと。「ヒンドゥー教の国王でさえもその前では跪かざるをえないほどの力を持つ」(P16)。


ロイヤル・クマリはもちろんただ一人で、直接言葉を交わすこともなければ、写真撮影さえも厳しく制限されている。クマリの館から出ることさえ、年に数度の祭りの時に限られている。だが、いかにロイヤル・クマリといえども、彼女が他のクマリたちよりも歴史的な正統性を誇るべき唯一の存在であると言うことはできない。そして、他の地域に存在するローカルなクマリたちが必ずしも派生的なものだとも言えないのである。(P20)


こうして見ると、ロイヤル・クマリをメジャーアイドル的なものと見なすことができるかもしれません。大都市圏に存在し、厳しい条件をクリアして、唯一無二の存在として君臨する。もちろんいまやメジャーアイドルも接触イベントをするので、メジャーアイドルの方が緩いとは言えるでしょうが。
さて一方で、首都カトマンズの周辺に位置する地域にもクマリは存在します。たとえば、ブンガマティという地域にもクマリがいます。


ここ(筆者注:ブンガマティ)のクマリは田畑のあぜ道を平気で裸足で歩き回っており、友だちと仲良く遊ぶこともあるし、それほど特別扱いされているようにも見えなかった。しかも、わずか二、三年ですぐ次のクマリへと交替してしまうのである。(P169)


これは地方アイドルっぽいですね。あまり厳密な条件で選ばれることなく、日常生活もその地域で平気に送れてしまう存在で、祭りの時には役割を果たす。また、バクタプルという都市のクマリは三人いて、主要なクマリと補助的なクマリに分かれています。パタンという都市の祭りで、クマリの衣装を着けた幼い少女500人がお祭りに参加したこともあるようです(P287)。
以上のように、まず面白いと思ったのは、「生き神」といってもその選ばれ方や生活ぶりは異なり、権威づけにも相当な濃淡があるということでした。



次に「処女性」の問題を考えます。


クマリは「まだ月経を経験していない純潔な少女」でありながら、既に当初より八母神の一人(つまり妻であり母である)という矛盾を抱えていた(P49)


処女神が一見セクシュアリティと無関係に見えるのは、実はあまりにその力が強大で危険だったからに他ならない。性が消失するところにはまた性の極限値がひそんでいるのである。(P115)


クマリはたしかに無垢の少女によってその役割が果たされることになるが、おそらく人々の潜在意識のなかでは処女の力に対する畏れの感情が波立っていたに違いない。無垢であり、純粋であり、「ゼロ」であるからこそ、何者かが彼女の身体に入り込むことができる。理解を超えた強大な力とまったく無力な少女の組み合わせ、そこにこそクマリの秘密が隠されているのである。(P92)


もしかしたらイノセントであるということと、神がかり(なにかにとり憑かれているということ)であるということのあいだには、そんなに大きな違いはないのかもしれない。イノセントというのは単に純真で無垢な状態を意味するだけではない。むしろ何者にもなれるということではないか。(P255)


これらを読むにつけ、私はクマリとアイドルとの類似を思わずにはいられないし、少女が時に神的なものと見なされることにも納得をしてしまいます。自分が7年前に書いた日記で、気色悪いものが残っていたので引用してみましょう。


一生懸命振り付けを真似して、叫んで、飛んで、なんとかアイドルになりたい。菅谷梨沙子の表情を見ていると感じてしまうのだが、ステージのアイドルと同一化するためには、その対象のアイドルが、できるだけ空虚であったほうがいい。人格を感じないような、人形であったほうがいいのかもしれない。僕の魂よ、人形に乗り移れ。
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070715/1184517092


でも、この気持ちは今でも理解できます。アイドルは異なる矛盾しているような二項を併せ持つことで、すごいものと見なされます。「男/女、処女/母、人間/神、有限/無限、破壊/慈悲」といったものの境界をやすやすと超えてしまう。
ただ、ここでいう「処女性」はあくまで象徴的なものであって構わないと思われます。つまり実際に処女でなくてよいということです。実際、いまのアイドルは「実際の処女性」についての屈託から解放されつつあるように思います(しかし解放され切ることはおそらくないでしょう)。


ところで、パタンという都市のオールド・クマリ(と筆者が呼ぶ)というクマリの存在は面白い。六十歳を過ぎても月経の始まりを否定し、(おそらく)並外れたスピリチュアルな能力によってクマリの座に居続けている。
これを見ると、「処女性」が問題とされている中でも、並外れた力によってアイドルであり続けることも可能なのだ(しかしその例は少ないだろう)ということを思わされます。多くの人はここで松田聖子あたりを例に挙げたくなるかもしれません。
ただし、筆者はここで慎重に釘を刺しています。


幼いクマリの場合、その内部が限りなく無(ゼロ)に近いからこそ、何か別の大きなものが入る余地が生まれるのではないか。無垢とか処女性とか純潔とかいうのは、人間が神であるために欠かすことのできない第一の条件なのである。既に何かが入ってしまっていると、それだけで神の入り込む余地は少なくなってしまうのだ。つまり、オールド・クマリの霊力はたしかに認めるものの、そうした異質なものの容れものといての幼いクマリこそが神の最もプリミティブなかたちなのではないか。(P146-7)


だからやはり、「アイドルは若いほうがいい」、というのは神聖性を問題にするならば(一般論としては)正しいと言いたくなります。


以上、権威づけや処女性について考えてきました。最後に、神と人間の関係について。


ここカトマンズ盆地では、神はキリスト教神学でよく語られるような「絶対他者」などではなく、神と人間とのあいだにはゆるやかな結びつきさえ見られる。人はそのまま神になり、神は同時に人でもある。(P284)


こうした宗教観をもとにすれば、アイドルは宗教であるとか、アイドルを神と見なす、ということがとても自然に思われてきます。一定の条件を満たせば、少女は神になる。それは遠く手の届かない高貴な存在でなくても、地方都市の学校に通う一見ごく普通の少女が、週末に地元のショッピングモールのイベントにアイドルグループの一員として出演するというだけでも、です。


都合のいいところだけ引用してきましたが、全体を通してアイドルについて考えさせられる本です。好きな映画「エコール」も本書の中で紹介されていました。アイドルや宗教的なものに関心がある方なら、興味深く読める本だと思います。ぜひどうぞ。


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