写真集は萌えと親和性が低い(2)

先日のエントリで確認したように、写真集は、写真家の作家性がせり出してしまった時、萌えと親和性が薄くなってしまう。被写体であるアイドルが具体的に特定のどこかにいて、写真家がその被写体を写せる場所にいることが想像されてしまう時、我々がそこに参与していく契機は失われてしまう。写真家の創り出す世界観が、完全にヲタの求める世界観と合致すれば問題ないが、それはほとんど実現不可能であろう。アイドル写真集としての文法にしたがって、商業的な意味で水着が一定の割合を占めたり、断片的な物語性を孕む写真集は、我々が手を出せない作品と化してしまう。
そんな中、ミニモニ。のフォトブックや、辻、嗣永の写真集においては、作家性を排するような写真や、実在感の無い写真を配置することで、萌えを喚起することに成功する。ただ、それにおいても我々に能動性の働く余地はあまりない。あくまで初めからそれとしてある写真集を鑑賞するときの解釈において能動性を発揮するのみである。
であれば、写真集を自分から作ってしまえばいいではないか、それこそが萌えという観点において正しい写真集のあり方ではないかと思えてくる。昨年から販売が始まった、「コンサートソロ写真集」こそ、まさに写真集を「萌える」ものにするための商品なのだ。『自分の好きな写真を選び、あなた自身の手で作る。世界でたった1冊のハロプロ・コンサート写真集!』と公式ページでも紹介があるように、100枚の写真の中から24枚を選び、順番を考え、写真集を構成していく。ヲタの主体性、能動性が発揮されるこの写真集は、さながらマンガにおける二次創作のように、アイドルが持つ世界観を生かすような写真を選び並べ、自分の好みのものにしていくその過程をまずは楽しみ、そして完成した作品を楽しむものだ。ただ惜しむらくは、ライブ写真集は、アイドルの身体性を比較的感じさせてしまうものだ。汗や、しわが写ってしまう。その点で、萌えへのベクトルを徹底しきれない。
で、結局、ハロショの生写真ということになるんです。好きな写真を選び、買い、アルバムに整理をする。その生写真は、基本的には背景のない、アイドルの上半身が写った写真で、誰が写したか、どこで写したかも分からない、極力作家性を排した写真となっている(もちろんライブ写真等の例外も多いが)。アイドルが実在しなくても構わないし、その写真がアイドルをそのまま写し取ったものである必要もない(実際加工はしているんだろうし)。そんな写真たち。それぞれの写真を差異化づけるのは、衣装と表情とポーズ(あとコメント入り写真ではコメント)。しかし、それらの差異はあってないようなもので、実際、どれがすでに買った写真かよく分からなくなることも頻繁にある。このように、各々の萌え要素によってかろうじて差異化づけられた写真を買い漁り、整理していく。こういうのをデータベース消費と言っていいのだろう。ハロショ店内の壁一面のカタログ(データベース)の中から、自分の萌えに都合のよい写真だけを選び出して消費していく。自ら選び、構成し、想像、創造していく能動性の中にこそ、萌えは存在する。
やはり、写真集のプロトタイプと、萌えとの親和性は低い。ヲタの能動性を誘発するような仕掛けがなければいけない。ただ、ヲタは、ハロショで、そして現場で売られる生写真こそ萌えを最も効率よく喚起するものであることを知っているのだ。すさまじいペースで量産され、ハロショでめまぐるしく回転する生写真。萌えが、虚構、無いものへの欲望、不可能性への欲望だとするならば、一枚一枚と生写真を積み重ねて無限を目指すヲタの営みは、不毛。不毛であるがゆえにその行為はそれそのものとして、露わである。目指すところの無限は夢幻。確かに僕らは、有限を繰り返したら、いつか無限の空へ飛躍できるんじゃないかと夢を見ているのだ。