人形の生と死――天野可淡展

昨年からアイドルを語るときの一つの比喩として「人形」という語をしばしば用いてきた。じゃあ人形ってなんなのよ、ってことで、渋谷の人形博物館「マリアの心臓」の「天野可淡展」に行ってみる。予備知識全くなし。
渋谷パルコ近くのとあるビルのB1F、薄暗い照明の中、小ぢんまりしたスペースに人形たちがたくさん。彼ら彼女らと語るための椅子も用意されている。
天野可淡の言葉が印象的だ。正確には覚えていないけれど、「人形を愛するということはこどものままでいること」「人形と鏡一枚(死ぬか死なないかの境界)を隔ててわれわれは人形と同一化できる」というような意味の言葉。人形と共に、そこここに鏡が置いてあった。
印象的な人形が2体。1体は男の子の人形。それの正面にまじまじ観察するための椅子があったので、座って彼と対峙する。バックにはフランス語の曲がかかっている。暗い照明の中で、彼が動いたような気がした。こわい。人形って生きているんだろうか、と問うのは愚問だろうか。それはアイドルは神か人間かと問うのと同等の愚かさか。だけれども、人形の生と死、ということを思わざるをえない、対峙したときのその不可思議さ。
もう1体。少女。餓死寸前とも思えるガリガリに痩せ細った身体。なにかを渇望して針金のような手を虚空に向けて捧げる。
人形はそもそも生きていない。そんな「物」に生命を与えるべく作られたものが人形。ところがそこにあるのは、死にそうな身体。ただその死を思わせる彼女の身体の中で、生へと向かうベクトルを孕む抵抗点として存在したのが乳首だった。つんと。成熟した乳房が球体をなしてしまうがゆえに、外への力が均等に満遍なく平らかになってしま(って、平和でつまらなくなってしま)うのに対し、未成熟の乳房は、成長点を乳首の一点に集中する(かのように見える)がゆえの迫力がある。魅力というよりは、怖さ。触りたいとかなんとかじゃあ絶対ないなあ。なんかすげーって感じかなあ。だから、この人形は死であると思われたものが生で、生なんだけど死に近接していて、だけれども生が息づいている。生と死が交錯するところの美?
少女の乳首ってのはやはり象徴なんだと思う。少女の人形を見るとき、そこへの作者の想いが見てとれるような気がする。成長への可能性、未来。人形に、あるいは、少女に「夢」を見るものは、未来への可能性や、生命力の横溢への畏敬を感じているのではないかと思う。その象徴が端的には乳首だと言ってよい。人形の写真集のサンプルの中で、少し過剰に白い肌との色彩のコントラストがつけられた膨らみかけの乳首を見たときに感じる震えみたいなものは、性欲に回収しきれない何かだった。(もちろんここで、僕は少女に射精したいと思う人々のことを非難するつもりはない。)
その「震え」と、僕が℃-ute中島早貴へ送る視線はたぶん似ている。「育て!」なのか「育つな!」なのかわかんねえ、でもずっと見ていたいような気持ち。瞬間と永遠を接合したい。
アイドルと人形は決定的に違うという。アイドルは年をとり、人形はいつまでも若いまま。果たしてそうか?僕が見た人形の中には、足が劣化して針金が露出してしまったものもあった。人形もアイドルも身体を持つという点では同じだ。決定的な差異とは言えない気がする。身体性があるかないか、という点では、アイドル・人形/アニメ・マンガの差異のほうが決定的に思える。
ともかく、僕は「人形は生きている」という言葉遣いが適当であるような気がしてきてしまった。可淡は鏡を隔てることで人形には死を与えられていないかのように書いているが、人形には生も死もあると僕は感じた。アイドルと同じだ。「アイドルはお人形さんだ」という常套句は、一般的にはアイドルを揶揄するものでしかないだろうが、「人形は生きている」という認識を経た上では、その常套句をポジティブに捉え直す可能性が出てくるのではないか。
人形は、年もとれずにいきなり物理的に壊れていくという点で、アイドルよりも残酷な宿命を負っている。そういう意味では、アイドルをさらに比喩的に表したのが人形であると言える。そういう宿命を背負った美を僕らは愛する。「アイドルがお人形さん」だからこそ僕は愛する。彼女達を愛することで、僕らは僕ら自身の宿命をも愛する。
僕がここで問うのは、身体性を持たないものを果たして愛せるのかという愛の定義の問題である。僕は、「彼女」がいずれ死ぬから愛せるんだとか言いたいのだ。