矢島舞美 VS しほの涼?

週刊チャンピオンの表紙が「ジュニアアイドルの先駆者」とも言われるしほの涼だった。
なるほど、高校生という新たな記号を手にしたのですね。
しほの涼…1991年9月7日生まれ × 矢島舞美…1992年2月7日生まれ
家に帰って矢島写真集の画像を見たら、どうしてもこの同学年の2人を比べる構図が自分の頭の中で出来上がってしまった。
しかしながら、こんな風に同じ土俵に乗っていると思わざるをえないところにそもそも問題を感じるわけだ。
かたや中学生時代に表紙から見せパンしてる写真集を何冊も出しているしほの涼と、水着やら露出の多い衣装をおそらく意図的に避けてきたのではないかと思われる℃-ute矢島舞美である。その矢島がスク水を着るなりしてジュニアアイドル風の写真を撮られているということ。どうなのかと思う。で、そのどうなのかを猛烈な勢いで吹き飛ばしそうなかわいさなのがまた問題だ。これは冗談であったりなかったりする。つまり、感覚的に「快」であるということは絶対的に「善」に思えてしまうのだが、例えばそれがアイドルの際限のない過激な露出競争を招くかもしれないということ。この際限のなさはなんとしても押しとどめたい、なぜなら個々のアイドルの磨耗を早め、アイドルを滅ぼすからだが、それを止める手段が見当たらない。
アイドルを守るためのルール(倫理)。振り返ってみれば、2001年〜2002年あたりだったら、ハローのメンバーが水着写真集を出すということは考えにくかった。2003年あたりから立て続けに水着写真集が出されたことへの非難もかなり強かったように思う。その時期においては確かに、「ハローは水着写真集は出さない(出さないでも大丈夫)」という暗黙のルールのようなものを僕らは信じていたことがあったように思う。だからハローや娘。の権威の失墜にこうしたエロ化が一役買っていたという言い方も可能だと思う。ハローのアイデンティティだとかブランドというものが、水着写真集によって、少なくとも一時期、揺らいだと言うことはできよう、つーか自分がそうなのだ。
問題はもちろん、揺らいだ自分は、結局推しである限り写真集を買うことをやめることができないという事実だ。ああ、水着を目的でなく、アイドルの魅力を表現する手段として活用してくれ。辻の写真集を見よ。水着であっても辻性に溢れるものと溢れないものとの歴然たる差。
願わくば、矢島の写真集が作り手の意志を超えたところでのアイドル自身の魅力の発露であってほしい。矢島個人のことを想うならそれでいい。いまや℃-ute推しである自分は、もしかしたら買ってしまうかもしれないのだから。
ただもうひとつ。℃-uteというグループを考えたときにどうなのかというのが出てくる。℃-uteはキュートなのだ。だからセクシーなのは℃-uteじゃないはずじゃないか?僕が2月に抱いた懸念がよみがえってくる。『一人だけ別カテゴリーにいた。つまり、「キュート」じゃなくて「セクシー」だったのだ。正直に言うなら、「身体的な成熟」という点でも目立った。』とライブ後に書いたが、身も蓋もない言い方をすれば、「胸がでかいのとキュートは矛盾しないのか」という問題。僕は結構本気で問題だと思っている。でもライブが始まればそんなのまた吹っ飛ぶんだ。
ああ、アイドルを理性的に語るということはなんと愚かしいんだろう。アイドルなんて本能的に消費するものに決まっているじゃないか。……って、言いません。アイドルを理性的に語ることで、手に入れられるものがあるはずです。例えば、「生きるという力」とか。