まっすぐ。

娯楽道でチケを入手。
のぞみで大阪へ向かう。交通費(チケ代の10倍以上)さえ気にしなければ、本を読んでいるとあっという間だ。
大阪厚生年金会館はおそらく2年ぶり。大阪はいつものように熱い空気。
さて、会場に着くと、画像の通りスケブやボードが持ち込み禁止。娘。紺ではアンコール時にボードやらちょうちんを映し出すくらいで、事実上称揚していたのに、これはどうしたことか。矢島・中島・有原・梅田のジェスチャークイズでヲタが答えを教えないようにするため、ということも考えられるが、そのためだけに禁止というのはありそうにない。
ちなみに入場時に配られた注意書きにはこうも書いてある。『開演中、大きな振付をして踊ったりする行為は、周りのお客様や通路を通られるお客様への迷惑となり…(以下略)』。「踊ったり」の「たり」は「ヲタ芸」を指すのだろうが、いずれにせよ主催者側がヲタを管理しようという意志を感じる。そういえば3日の夜公演では、通路席ではみ出して踊っていたら女の偉そうなスタッフが、まるできちんと収まらない家畜を押し込むかのように僕らを通路から押し返した、人間扱いされていない。「お客様は神様です」なんて言葉もありながら、家畜扱いされるヲタと、そんなヲタに神様扱いされたりひどい仕打ちを受けたりするアイドルと。さあ手を取り合って行きましょうか。
今日も最後列通路、しかも3階。遠い。どこかであいぼん厨だか誰だかが「まいまい食べたーい」とか叫んでいる。「あいぼん厨死ね」に会場盛り上がる。一方ロビーでは色とりどりのユニフォームに身を包んだ戦士が準備運動を怠らない。自分も、存分に体を動かすために最後列をとったのだ。同じく、アキレス腱を入念に。
…まっすぐだ。みんなまっすぐだ。その中でも一番まっすぐなのが舞美なんだけど。
ライブが始まると、いつもは距離があるとシニカルな視線をしばらく送るのが常なのだが、「That's the POWER」から℃-uteという物語世界に入っていけました。最後列は空席もあって僕を邪魔するものがなかったから。ステージ上の℃-uteまで夾雑物一切なし。℃-uteまでまっすぐ。
そんなわけで、曲の細かな印象は今回さっぱり覚えていない。ただ楽しいだけ。言葉の要らない楽しみと、言葉にする楽しみというのがありますが、曲がかかっている間は、僕は前者を存分に味わいました。
さて、矢島ですが、ここ→http://d.hatena.ne.jp/kasimasi1003/20070505/p9 でぴたり矢島というものを表現してくれているので、とりあえず僕がいうことはなし。「頑張ります!」と言われて外部視点からシニカルに見ることなどできようがない。「なんかもうスポーツ選手を見る気分だよね。」って、まさにその通り。僕はそのまっすぐさがまぶしすぎるのだ。太陽を直視できないから僕らは間に何かフィルターをはさんで見ることをしばしばするのだが、それを許さない矢島の「直接性」よ。僕はこれとどう相対すればいいのだろうか。…あとで「舞美」じっくり見て考える。
愛理の「通学ベクトル」、歌詞についてようやく注目できた。「るてるてずうぼ」って、雨を降らすためのおまじないなのですね。だから逆にしてるのか。マワリやロマンスが炸裂するのは、曲調もさることながら、愛理が頭上で手を叩いて煽っているから、それがヲタ芸解禁ということなんでしょうか。

私がどこにいるか 〜℃-ute紺MCという芸術作品〜

3日は寿司のことばっかり書いてしまいました。今日はキューティーガールズにもスポットを当てます。
萩原・岡井・鈴木が小中学生コントをする。「おぼえて」「たすけて」「みとめて」の3本立て。
「おぼえて」では、小学6年の理科の知識を「おぼえて!」と言う岡井・鈴木両名に対し、萩原が「かわいさとは関係ない」と言い、「かわいさ」をアピールして金魚すくいのおじちゃんから「金魚」を獲得するひとり芝居をする。
① これをコント内部において解釈するなら、アイドルにおいての実用性は「勉強」よりも「かわいさ」にあるという開き直りであり、「アイドルは頭が悪い」というしばしばなされる批判に真っ向から立ち向かうものである。実際、アイドルは「かわいさ」で「金魚(=金?)」を手に入れるのである。そんな芝居を、ませたキャラのまいまいがすると。この前のうたばんでも小梅太夫にギャラを聞いてたのはまいまいだったはず。
② さて、越境してみます。この萩原のひとり芝居は、まさに我々ヲタと向き合った形で行われる。そして、まいまいが「おじちゃん」と呼びかける先にいるのはもちろんヲタである。ここでは、シミュレーションゲームにおけるプレイヤー、またはイメージDVDの視聴者の立場として我々が措定される。だから、ヲタの多くはそこで物語世界に参与し、「金魚をおまけしてあげる」というコマンドを選択する。実際、「おまけして」に「いいよー」と答えるヲタが多数存在するのだし、それがその場としては正解と言える反応だった。
③ ①の解釈に②が加わった今、読解も第三の段階に入ることになる。つまりこのコントは、「かわいさ」によって「金魚(=金)」を手に入れるアイドル、という物語にその場でヲタを引き込むことで、「℃-uteは「かわいさ」でヲタからお金を獲得します」という、まさにそのライブ自体が行っていることを比喩的に表現し、我々の眼前に可視化する試みであるのだ。なんと高度な作品だろう!ただ萌え転がっているヲタどもよ!このことに気づけ!そして気づいた上で萌え転がれ!…なんて。
ちょっと調子に乗りすぎたか。岡井と鈴木から額に「ベシ!」を食らいたい気分。



もうひとつ、このMCで問題になるのは「小学生VS中学生」という構図である。「小学生と中学生にどんな差があるの」「みんなずっと小学生でいたいはずなのに」という萩原に対し、「素直に中学生がうらやましいって言いなさい」と詰め寄る鈴木。そろそろ写真集(水着あり)を出す鈴木である。
僕はここで、二重に引き裂かれるアイドルの身体を思う。つまり①「U15の過激化を誘発するような「大人化」をせかす方向」と、②「いつまでも成長しない世界に安住すること」だ。
①の立場をとる(ように見える)鈴木は、「素直に認めなさい」と優しく、しかし有無を言わさず「大人」に近づきたいと思う欲望を強制する。中学生になったのでもらったお金で「ファッション雑誌」を買うという鈴木。一方②の立場をとる萩原はいつまでたっても「かぅわいぃ〜ねぇ」と言われたい、と言い、小学生ならではのエピソードをコント中にはさむ。
特に℃-uteに言えることだが、いつまでも「小さくかわいい」状態にいられるわけではない。そこにおいてヲタは「いつまでもそのままでいてほしい」というかなわぬ夢を見ることになる。それが①。
あらがえない時間の働きによって成長してしまったアイドルは、しばしば購買層を広げる意味でか、過激な、それまでのアイドルイメージを崩しかねないような写真集を出したりする。それにおいてもヲタの心境は複雑である。それが②。
℃-uteにおけるこの2つのジレンマ。「℃-uteはどのように健全に成長すればいいのか」という問題提起をこのコントは行っているわけである。
「小学生と中学生の共存は無理」、「キューティーガールズ解散ね」と言う岡井・鈴木に対し、萩原は「存続希望のファンレターいっぱい来てるんだよ」。結局、アイドルを生かすも殺すもヲタ次第ということか。われわれがどう℃-uteを成長させていくのか。答えは我々が出していくしかない。……なんて。


いずれにしても、「私」がどこに視点を置いているのか、つまり、「物語を物語としてのみ受け取る」か、「物語に参与していく立場をとる」か、あるいは「物語に参与することで逆に現実への照射を見出すか」によって様々な読解が可能になる、ということ。こうした解釈可能性に開かれているという意味で、℃-uteMCは極めて文学的、芸術的って言えませんかという話。
一応お寿司のVTRについてももう一度確認しておくと、「お寿司(ネタ)を食べる℃-uteを映す映像」があって、それを「ネタ」として消費する(食べる)ヲタがいるという構図(あいぼん厨が「まいまい食べたーい!」という欲望はまさにここで満たされるわけだ)。しかし、そんな風に物語の外部にいるかのように思われるヲタが、実は当の℃-uteに食べられている「推す士」ではないか、と視点を転じた途端、事態は急転する。安全であると思われていた物語外部から、あっという間に物語の内部に引き込まれ、アイドルに呑まれる存在に成り下がる。そうした視点の転換によって、「アイドルを消費する私」、「アイドルに食われる(搾取される)私」という両義的な「ヲタ―アイドル」関係を再認識することができる。
さらに言うなら、ここではネタ・おすしを握る主体(つまりはアイドルやヲタを手中にしている事務所ですな)が画面に出てこないということが重要である。ヲタもアイドルもお互い「食うか食われるか」という「持ちつ持たれつ」の関係を保ってはいるが、ヲタのこともアイドルのこともネタにしているのは事務所だぞという点だけは綺麗に隠蔽されて、映像作品は一見「ヲタ―アイドル」の幸せな楽園の様相である。