私がどこにいるか 〜℃-ute紺MCという芸術作品〜

3日は寿司のことばっかり書いてしまいました。今日はキューティーガールズにもスポットを当てます。
萩原・岡井・鈴木が小中学生コントをする。「おぼえて」「たすけて」「みとめて」の3本立て。
「おぼえて」では、小学6年の理科の知識を「おぼえて!」と言う岡井・鈴木両名に対し、萩原が「かわいさとは関係ない」と言い、「かわいさ」をアピールして金魚すくいのおじちゃんから「金魚」を獲得するひとり芝居をする。
① これをコント内部において解釈するなら、アイドルにおいての実用性は「勉強」よりも「かわいさ」にあるという開き直りであり、「アイドルは頭が悪い」というしばしばなされる批判に真っ向から立ち向かうものである。実際、アイドルは「かわいさ」で「金魚(=金?)」を手に入れるのである。そんな芝居を、ませたキャラのまいまいがすると。この前のうたばんでも小梅太夫にギャラを聞いてたのはまいまいだったはず。
② さて、越境してみます。この萩原のひとり芝居は、まさに我々ヲタと向き合った形で行われる。そして、まいまいが「おじちゃん」と呼びかける先にいるのはもちろんヲタである。ここでは、シミュレーションゲームにおけるプレイヤー、またはイメージDVDの視聴者の立場として我々が措定される。だから、ヲタの多くはそこで物語世界に参与し、「金魚をおまけしてあげる」というコマンドを選択する。実際、「おまけして」に「いいよー」と答えるヲタが多数存在するのだし、それがその場としては正解と言える反応だった。
③ ①の解釈に②が加わった今、読解も第三の段階に入ることになる。つまりこのコントは、「かわいさ」によって「金魚(=金)」を手に入れるアイドル、という物語にその場でヲタを引き込むことで、「℃-uteは「かわいさ」でヲタからお金を獲得します」という、まさにそのライブ自体が行っていることを比喩的に表現し、我々の眼前に可視化する試みであるのだ。なんと高度な作品だろう!ただ萌え転がっているヲタどもよ!このことに気づけ!そして気づいた上で萌え転がれ!…なんて。
ちょっと調子に乗りすぎたか。岡井と鈴木から額に「ベシ!」を食らいたい気分。



もうひとつ、このMCで問題になるのは「小学生VS中学生」という構図である。「小学生と中学生にどんな差があるの」「みんなずっと小学生でいたいはずなのに」という萩原に対し、「素直に中学生がうらやましいって言いなさい」と詰め寄る鈴木。そろそろ写真集(水着あり)を出す鈴木である。
僕はここで、二重に引き裂かれるアイドルの身体を思う。つまり①「U15の過激化を誘発するような「大人化」をせかす方向」と、②「いつまでも成長しない世界に安住すること」だ。
①の立場をとる(ように見える)鈴木は、「素直に認めなさい」と優しく、しかし有無を言わさず「大人」に近づきたいと思う欲望を強制する。中学生になったのでもらったお金で「ファッション雑誌」を買うという鈴木。一方②の立場をとる萩原はいつまでたっても「かぅわいぃ〜ねぇ」と言われたい、と言い、小学生ならではのエピソードをコント中にはさむ。
特に℃-uteに言えることだが、いつまでも「小さくかわいい」状態にいられるわけではない。そこにおいてヲタは「いつまでもそのままでいてほしい」というかなわぬ夢を見ることになる。それが①。
あらがえない時間の働きによって成長してしまったアイドルは、しばしば購買層を広げる意味でか、過激な、それまでのアイドルイメージを崩しかねないような写真集を出したりする。それにおいてもヲタの心境は複雑である。それが②。
℃-uteにおけるこの2つのジレンマ。「℃-uteはどのように健全に成長すればいいのか」という問題提起をこのコントは行っているわけである。
「小学生と中学生の共存は無理」、「キューティーガールズ解散ね」と言う岡井・鈴木に対し、萩原は「存続希望のファンレターいっぱい来てるんだよ」。結局、アイドルを生かすも殺すもヲタ次第ということか。われわれがどう℃-uteを成長させていくのか。答えは我々が出していくしかない。……なんて。


いずれにしても、「私」がどこに視点を置いているのか、つまり、「物語を物語としてのみ受け取る」か、「物語に参与していく立場をとる」か、あるいは「物語に参与することで逆に現実への照射を見出すか」によって様々な読解が可能になる、ということ。こうした解釈可能性に開かれているという意味で、℃-uteMCは極めて文学的、芸術的って言えませんかという話。
一応お寿司のVTRについてももう一度確認しておくと、「お寿司(ネタ)を食べる℃-uteを映す映像」があって、それを「ネタ」として消費する(食べる)ヲタがいるという構図(あいぼん厨が「まいまい食べたーい!」という欲望はまさにここで満たされるわけだ)。しかし、そんな風に物語の外部にいるかのように思われるヲタが、実は当の℃-uteに食べられている「推す士」ではないか、と視点を転じた途端、事態は急転する。安全であると思われていた物語外部から、あっという間に物語の内部に引き込まれ、アイドルに呑まれる存在に成り下がる。そうした視点の転換によって、「アイドルを消費する私」、「アイドルに食われる(搾取される)私」という両義的な「ヲタ―アイドル」関係を再認識することができる。
さらに言うなら、ここではネタ・おすしを握る主体(つまりはアイドルやヲタを手中にしている事務所ですな)が画面に出てこないということが重要である。ヲタもアイドルもお互い「食うか食われるか」という「持ちつ持たれつ」の関係を保ってはいるが、ヲタのこともアイドルのこともネタにしているのは事務所だぞという点だけは綺麗に隠蔽されて、映像作品は一見「ヲタ―アイドル」の幸せな楽園の様相である。