アイドルファンから見る、バナナ学園純情乙女組

去る昨年大みそかの21時、コミケ疲労困憊した体で、王子小劇場で行われた「バナナ学園純情乙女組」の最終公演を見た。観客を巻き込んだ過激な演出で知られるバナナ学園がひとまずこの日をもって解散するということで、急遽チケットを予約し、年の瀬だというのに、東京ビッグサイトから近くもない王子へと向かったのだった。バナナ学園の公演はアイドルをモチーフにしており、多くのアイドル楽曲も使われている。アイドルファンの自分にとっても注目すべき集団であり、今回ようやく最終公演にして初めて見ることができた。アイドルファンからの視点で、この公演を振り返ってみたい。


まず、王子小劇場について感じたことは、「なんか臭い」ということだ。なんか生々しい臭さが充満している。会場入り口の床にはなんだかいろんなものが散らばっていて、それが歩道にも及んでいた。チケットを購入し、会場内に入る。
客席に至るまでに、楽屋的空間を通り抜ける。いや、もともとそれは楽屋ではないのかもしれないのだが、おそらく後で客席に飛んでくるであろう豆腐が並んでいたり、テープやら衣装やら何やら、文化祭的な雰囲気が客席に至るまでの動線にまで溢れ出していた。ここにおいてすでに、客席と演者の空間は融解を始めていたように思う。
さて、客席に入ると、椅子はビニールで覆われ、椅子の上にはチラシと、簡易なレインコート、それから荷物を入れる大きめのビニール袋が置かれており、観客もまた来たるべき開演に備えて粛々と準備を始める。多くの常連が、それを当たり前のものとするその場の空気を頼もしく感じながら、自分もレインコートを着、また荷物用の袋に下半身を突っ込んで、なんとか綺麗な身体で帰途につけるよう申し訳程度の抵抗を試みる。隣を見れば、しっかりちゃっかりレインコートのズボンも持参している常連の客がいた。こうした開演前の準備は、普通の舞台の開演前とはいささか異なり、むしろアイドルのライブ前の客席を見ているのに近い。しばしばアイドルのライブ前には、光り物やうちわやメッセージボード、服装(いわゆるヲタTやらジャージやら)の準備に余念のないファンの姿を見る。また入念にアキレス腱を伸ばす姿も見かけることがある(というか自分にも経験がある)。
つまりここで確認しなければならないのは、バナナ学園はアイドルライブ同様、観客の身体でもって体験するものであるということだ。もちろん舞台全般にそうした側面はある。ただそれが如実にせり出して、視覚聴覚にとどまらない全身体的な体験をもたらすということは特筆に値する。その点は以下に具体的に確認していくこととしよう。
バナナ学園の公演内容を説明するのは難しい。少なくともそれは物語という意味での内容を持ち合わせていない。舞台鑑賞というよりは、バカ騒ぎに参加する(付き合わされる)、というのに近い。ちょうどアイドルファンがライブに「参戦」するというのと同じように。
演者は60分強の公演中、ひたすら動き回り、歌い、踊り、物を投げ、会場中を引っ掻き回していく。男女ともに格好は体操服、スク水、制服といった、「学園」と言っていることからも分かるように学校をモチーフとしたものが多い。使われた楽曲はアニメもあるが、多くはアイドル楽曲であり、「フライングゲット」や「怪盗少女」またハロヲタとしては懐かしい「Baby! 恋にノックアウト!」「いきまっしょい!」「ハピサマ」「バラライカ」などの曲もあり、多くの客には何の曲か分からなかっただろう。(ポップカルチャーのイメージを断片的につなぎあわせて提示するという点では、カオスラウンジの展示物を私は思い出した。)
何人かの演者は胸に大きく名前が書いてあり、彼らが筋書に当たるものを演じているようにあまり見えない以上、それは役名には見えない。ではそれは演者の本名であるのか、私は知らない。だからそれが何の名前なのか、私には分からない。
開演してすぐに、「菊池」と名のついた体操服の女性が客席をまたぎまたぎやってきて、けっして衛生的とは思えないおひつのご飯に手を突っ込んで握り飯を観客に配り始める。嫌々ながら受け取る客もいたが、自分は差し出された握り飯を平気な顔してすべて平らげた。それが「正解」であり、そのように演技することがふさわしいように思われた。「菊池」はお礼を言ってくれた。それが本心からも発されているような心持がした。ここにおいてすでに「逆転」のようなものが始まっていた。それにしても、その握り飯は塩気が強すぎて、とてもおいしく食べられたものではなかった。終演後に某AKBヲタで有名な方と、これは「塩対応」だと笑いながら話した。
それからも、たびたび客席に菊池は現れて、観客の病名を診断してまわったり、「苦手克服」といってタッパーに入った野菜を観客に食べさせてもらったり(私はにんじんをチョイスしてあげた)していた。こうした「交流」は他の大音量のバカ騒ぎの中で局所的に行われるのだが、基本的に体操服の胸に貼られた紙に「苦手克服」とか「採寸係」とか書いてあるので、観客は大方推し測ってその「ごっこ遊び」に付き合うことができる(付き合わされる)。ちなみに「採寸係」が来たとき、私はつい腕を伸ばして通常の採寸の方法に従おうとしたのだが、菊池は私の下腹部にメジャーをあてて、たいそう感動した表情をして去って行った。
さて、レインコートを着て、下半身はビニール袋に突っ込んだ形で、盤石かに思われた私の防水対策は徐々に破れ始める。会場の四方八方から水がかけられ、次第次第にジーパンに水が浸み始めた。バナナが投げられ、豆腐が投げられ、何か麺類がなげられ、わかめが、ボールが、ブーケが、ねぎが、テープが、サイリウムが、生理用品がなげられる。それらに困惑しながらも、楽しくなってもくる。そう言えば、それらのいくつか(あるいは似たようなもの)は、私の経験したアイドルのライブでも飛んできていたっけ。ハロプロのライブでボールが投げられ、AKBN0(現N0)のライブでバナナが投げられ、Jewel Kissのライブではお菓子が投げられた。セクシーオールシスターズのライブでは、逆に観客がブラジャーをステージの演者に投げていたっけ。あるいはまた、客席にダイブするアイドルだっているのだ。
途中から自分は、この公演はとてもTwitter的だ、ということに気づいた。会場の各所で演者が思い思いのことをしているように思え、それらが脈絡がなく統制も取れていないように思えるため、起きていること(情報)全てを観客が把握することは到底できない(とはいえ一定のタイミングで演者の動きがしっかりと同調したり、「静」のモードに入ることがあり、実際には少なくとも部分的な統制は取れている。どこまでが各演者のアドリブ的な振舞いなのかを読み取るのは至難である)。したがって、観客がどこを見るかは基本的に自由であり、自分が見たいと思ったところを見ればよい(というか見るしかない)し、あるいはなんとなく視線をやってしまったところを見るのだろうし、または近づいてきた演者をどうしても見てしまったりもするだろう。情報量が過剰であるがゆえに、自分が選択した情報にのみコミットするというあり方は、Twitterにおけるコミュニケーションを思わせる。同じクラスタでも、見ているタイムラインは違う、あるいは似たようなタイムラインであっても、どのツイートに同期してコミュニケーションをとるかは各人の選択に委ねられている。公演ではいきなり握り飯を差し出されることもあるわけだが、それは全く突然にフォローしていない人から不躾なリプライが飛んでくるようなものかもしれない。快適な空間に突如違和が侵入してくることも含め、Twitter的だと感じたのだ。
これについてはまた現代のアイドルライブにも似たようなことが言える。グループアイドルのライブは、複数人数であるがゆえに、全ての演者の振舞いを全て捕捉することはできない。どこを注視するかは観客に委ねられている。好きなメンバーを見ていることもあれば、それまで気にならなかったメンバーのふとした振舞いに心奪われることもあるだろう。もちろん観客の視線は、自らの席位置にある程度規定されてもしまうから、公演に行くごとに違った光景、違ったコミュニケーションが発生する。それもまた何度もライブへと足を運びたくなる要因ともなろう(たとえばこれに関してはAKB劇場の柱の絶妙な効果を論じた文章は近頃いくつか見かける。またバナナ学園の公演でも、特に客席への乱入者がどこに現れるかにおいて、客席の位置によって、各々の観客が全く異なる体験をすることになる)。そしてメンバーが自分を見たかもしれないというコミュニケーション(の錯覚)に酔いしれることもある。これはTwitterで、ある人間のツイートに呼応して周囲がそのツイートに同調する(しかもリプライを用いていない)場合の、お互いがなんとなく通じ合っているような不思議な感覚に近いかもしれない。
「菊池」は「天皇陛下万歳」と書かれた紙を掲げて客席中央で観客を煽るが、舞台上を主とする大音響にかき消されて孤立する。あるいは舞台上で学生運動的な振舞いがあっても、他のバカ騒ぎとフラットなものとして埋もれていってしまう。私はローマ法王Twitterを始めるというニュースを思い出した。全ての情報が等価なものとして並んでしまう、そのどれにコミットするかは各人に任される。そういった現代の情報過剰な社会を思わせる。


接触」「近接性」が一つのキーワードとなっている現代アイドルであるが、バナナ学園の舞台も様々な接触が行われた。そもそも一般的な芸術は、あるいはメディア体験は、視覚と聴覚に多くを依存している。これは複製可能性とか持続性とか多くの人間が鑑賞できるとかの問題で、視覚と聴覚によって知覚されるものが都合がよいからだろう。アイドル批評誌『アイドル領域Vol.2』においても指摘したことだが、触覚・嗅覚・味覚に関しては複製可能性が限られているがゆえに、アイドルをそれにおいて商品化するのが難しい。結局握手やハグやタッチという、複製していない生身の身体の接触体験を売りにすることになる。これはアイドルの一つしかない身体を利用するということにおいて効率は悪いが、一方でその希少さこそが売りにもなっている。しかし「嗅覚」と「味覚」については、なかなかアイドルが扱えるものではないように思える(「嗅げるアイドル」「味わえるアイドル」はなかなか難しいように思う。なぜ難しいかを考えるのには意義があるだろう。やはり複製可能性が低い知覚ほど「性的」に思われる、ということが鍵になるだろうか)。
バナナ学園は大音量と目にうるさい種々の衣装・飾りといった聴覚・視覚への強烈な訴求に加え、塩辛い握り飯、あるいは飛び交う食べ物の生臭さ(あるいは通路席の客には演者の汗臭さも生々しく迫ってきたようだ)、そして演者との身体的接触と、五感全てに強いインパクトをもたらした。普通に演者の女性の胸やももが客(自分)の体に触れたりする(後述のヲタ芸講座の時には自分の両膝をももで挟むようにして女性演者が自分の前に立った)。我々が触るというより、演者に触られる舞台なのだ。もう少し広く言えば、「能動/受動」が完全に攪乱される舞台とも言える。観客は見るのではなく見られてもいるのだし、触るのではなく触られるのだ。一方的にこちらが安心して観る舞台ではない、立場として対等な(あるいはこちらの方が弱者になってしまう)コミュニケーションが成立する場なのだ。近接するとともに双方向的な(対等な)コミュニケーションが成立してしまう。これこそ今のアイドル現象を特徴づけている大きな要素でもある。
しかし一方で、この近接性と双方向性はアイドル現象にとって大きなリスクを抱えていることは周知の事実である。ファンとアイドルのつながりが容易になり、不祥事の起こるリスクが高まり、実際に多くのアイドルがアイドルを続けることができなくなる事態が起きている。皮肉なことに、バナナ学園もまたそうしたアイドルの悲劇をなぞるように、おそらくある事件を直接の原因として解散を余儀なくされてしまったのだ(結果論だが、それは起こるべくして起こったようにさえ思えてしまう)。


公演終盤の「ヲタ芸講座」は、アイドルファンである自分からすればぬるく見えないこともなかった。バナナ学園初心者で、一方ヲタ芸についてはよく知っているつもりの自分が、バナナ学園の「ヲタ芸講座」についてはビギナーなのか経験者なのかよく分からず、戸惑った。
公演の最後に、観客は舞台に上げられ、それにともなって演者が客席へと移動し、演者と観客の関係が位置的にも逆転することで舞台は終了する。Twitter上で、ある方が「客席全員がアイドルファンで、完璧なヲタ芸をそこで披露する」という可能性に触れていたが、それが実現すれば、確かにたいそう面白い光景となったろう。それでこそ演者と観客は完全に逆転するのだから、それがこの舞台の一つの完成形というようにも思われた。
逆転というのは入れ替え可能だということで、この舞台は客席と舞台上のボーダーレスな関係を示している。それは強烈な五感の刺激と相まって表現される分には面白いのだが、その関係自体はアイドルにおいてはもはや当然のことであって、この舞台は「アイドルのデフォルメ」なんかではなくて、いまのアイドルの置かれた状況を割と的確に表した(だけの)舞台と言うことができる。地下アイドル系のイベントでは、出演の終わったアイドルは普通に客に混じって応援しているし、あるいはファンが舞台に上がってしまう(あるいはファンが見世物と化す)ことだって頻繁にある。むしろマイナーなアイドルにおいては、ステージ上よりもファンの繰り出すヲタ芸の方がよっぽど見るべき価値のあるものにさえなりうるのだ。
爆音娘。」というイベントがあって、それはハロプロ系の楽曲を流してひたすらヲタ芸などして騒ぐというものだが、バナナ学園の公演はそれと似ている。また初期の(というか最近のを知らないので)BiSが客席のファンがそのままステージに上がったかのようなゆるいパフォーマンスをしていたことも思い出す。その意味では、アイドルファン的に見れば、バナナ学園がけっして新奇な何事かをやったようには見えない。


公演後に、演者は会場内、また会場外の歩道にも出てきて、ファンと触れ合っていた。会場内には生臭い匂いが漂っていた。この公演の後の卒業式を持って、バナナ学園は解散した。演劇や舞台としての評価がどうであるかというのは私の論じられることではないが、強烈な体験をできるという点と、アイドルへの物思いをさせてくれる点において、私はバナナ学園が結局のところ好きである。
バナナ学園は解散したが、もしバナナ学園が現代のアイドル現象をなぞるならば、またどこかでお目にかかることもあるかもしれない。辞めたアイドルが復活することも往々にしてあるのだから。