震災・日常・境界 〜地方アイドルイベントから考えたこと〜

3月9日に、首都圏の4現場を回って6つの地方アイドルグループを見てきた。
詳しいレポはUstで話したので参照のこと
→「3/9地方アイドル4現場回しの感想」 http://www.ustream.tv/channel/onoyax#/recorded/29853257



11時40分にNHKホール近くの外の特設ステージで行われたイベントに出演したりんご娘、NegiccoSCK GIRLSを見て、その後(代々木第一体育館の横をV6ヲタとすれ違いながら)原宿駅より上野駅に向かい、上野駅で13時15分より水戸ご当地アイドルのイベントを残り10分だけ見て、15時から新浦安駅より歩いて10分ほどのところのマンション群のところで浦安マリンエンジェルスのパフォーマンスを見て、その後池袋の新星堂で行われた青SHUN学園のイベントを見てきた。4つのイベントの内容を画像付きで以下にあらためて記しておく。



ふるさとの食 にっぽんの食 全国フェスティバル「東北応援ライブステージ」
11:40〜12:35 場所:NHK放送センター前ステージ
りんご娘(青森)・Negicco(新潟)・SCK GIRLS気仙沼




りんご娘。メンバーの相次ぐ卒業となりましたが、今後も頑張ってほしいものです。




Negicco。「圧倒的なスタイル」でのファンを巻き込んだラインダンスは見事。




SCK GIRLSは震災と真っ向から向き合うミュージックビデオを流しながらのパフォーマンス。





茨城・梅まつりキャンペーン
12:50〜13:20 場所:上野駅中央改札口
水戸ご当地アイドル(仮)(水戸)



上野駅中央改札外。パフォーマンスを終えた水戸のメンバーがエスカレーターを上がっていくところ。





自転車安全利用キャンペーン
15:00〜15:15(寸劇と歌披露) 場所:海風の街9号棟ホール前広場
浦安マリンエンジェルス(浦安)




会場はマンション群の真っただ中。



We are チャリンコエンジェルス! ちりんちりん!





「いらっしゃいませ!!新星堂アルパ店一日店長、青SHUN学園です☆★」
17:00〜17:30 青SHUN学園CD レジ打ち販売
17:30〜18:15 トーク&ライブ 場所:新星堂サンシャインシティアルパ店
青SHUN学園(福岡) ※このイベントは画像なし



さてここではUstの中でも指摘したいくつかのテーマについてまとめて語ろうと思う。



一つ目は、震災について。
東日本大震災より2年が経った。首都圏に住む私は、日常的に震災を思い出すことはもうなくなっている。2年前、電子書籍としてチャリティ同人誌「「アイドル」にいまなにができるか」というものを作ったが、なにかそれも懐かしいものになろうとしている。震災直後、Negiccoが渋谷でのライブを控えていて、他のアイドルグループが活動を自粛する中でライブを実施し、そこに私も行ったのだが、メンバーたちのライブ実施への葛藤や、アイドルとしての苦悩を感じたのを思い出す。
しかし現実にはもちろん、震災は過ぎ去ってもう終わったものでは全くない。SCK GIRLSはReGenerasionのミュージックビデオをスクリーンに流しながら歌った。そこには被災地に立ち、必死に苦難を乗り越えようとするメンバーと地元の方々が、抗いようのない重さをもって迫ったきた。また、新浦安駅から浦安マリンエンジェルスのイベント会場に向かう際、液状化で地面が歪んだ跡が多く目についた。
アイドルという極端な快の象徴と、自然災害という厳然たる不幸が、どう結び付くのか。震災が起きた時、アイドルに何ができるのか(何もできないのではないか)という問いがアイドルに関わる全ての人に想起されたであろう。いまもってその答えはおそらく出ていない。ただ、SCKのミュージックビデオを見た時、アイドルが震災に真っ向から向き合うということにおけるポジティブな可能性について、物思いをいたさないわけにはいかない。



2つ目に「日常」ということについて。
私の勝手なイメージでは、アイドルは現実から離れたところにある快、現実ではない楽園のはずだった。それはアイドルが気楽に会える存在になったとしても同様で、握手の瞬間、イベントの瞬間は、(主に楽しくないつまらないものとして表象されるところの)現実を忘れさせ、違う世界へと連れて行ってくれるのだというイメージを抱いていた。しかしSCKのミュージックビデオを見る時、あるいは上野駅改札を出たなにげないスペースにただ赤じゅうたんを敷いて行われた水戸ご当地アイドルのイベントを見る時、あるいは浦安マリンエンジェルスが新浦安のマンション群に囲まれた(つまり地域住民しか足を踏み入れない)場所でパフォーマンスをした自転車安全運転推進のためのイベントを見る時(そのイベントの後には地域住民参加の自転車安全講習があったようだ)、「日常」へとアイドルが浸透していく現状に、既存の(勝手に自分が持っていた)アイドルイメージの転換を強く促される。
アイドルが我々を救うとき、仮にそのベクトルを虚構からのトップダウンと、現実に即したボトムアップの二項で捉えてみよう。前者は、たとえば週末におけるアイドル体験を心の支えに、平日5日間を乗り切るイメージが分かりやすい。アイドルから愛を浴びて、それを糧に、またそれを目的に平日を乗り越える。アイドルという非日常のために、日常を過ごすというイメージだ。ここでは「週末=非日常=快」と「平日=日常=不快(…でもアイドルのために何とか頑張る)」という区分けがなされやすいかもしれない。
一方後者は、日常そのものにアイドルが浸透し、日常そのものをアイドルとともに頑張って生きていくというイメージ。だから前者のような区分けは判然とせず、混ざり合ってしまう。特に地方の活性化を目的としたアイドルは地方経済という厳然たる日常と切っても切り離せない存在である。もちろんこの現状を、「アイドル=非日常」が日常に近接したという見方のみで捉えるのはおそらく不適切で、日常が非日常化する――たとえば買い物という日常的行為と思われたものがショッピングモールにおいて何か非日常性を帯びる(通りすがりにたまたまアイドルイベントに遭遇するなど)――という側面も同時にあるだろう。そうした日常と非日常の歩み寄りの一つの表れとしてアイドル現象を捉えることはできる。またこうした事態に、AKB48が果たした役割はおそらく無視できないだろうとも思う。



前述のことも踏まえながら、3つ目に、境界について。
アイドルがその時々のルールに基づく演劇やゲームの様相を帯びる時、演者と観客の境は、物理的な明確な境界である必要性を持たない。NHKホール外で行われたイベントには明確なステージが設営されていたが、上野駅のイベントには一応の赤じゅうたんしかなかったし、新星堂のイベントスペースも決して立派なものではなく、浦安のイベントに至っては、マンションに囲まれたちょっとしたスペースで行われ、アイドルと我々の間にはなんとなくファンがとった「距離」しかない。ロープも柵もない(つまずくくらいのちょっとした段差だけがあった)。アイドルが「日常」に浸みわたってくる時、境界の融解は必然である。
アイドルのライブ現場では、以前から演者と観客の境界はなくなりつつあった。地下アイドルのライブでは、出番を終えたアイドルがスタンディングスペースでファンとともに他のアイドルを応援することはザラにあるし、青SHUN学園のライブでは、一部のファンをステージに上げ、メンバーの一部が客席に降りるということもあったようだ。アイドルがもともと持っていた(かどうかもあやしいが)超越性を失うにつれ、演者と観客の地位は対等なものに近づき、それはステージと客席の区別を曖昧にする。そうした事態は確かにあった。それが、アイドルが「日常」の世界へとより深く侵出するにつれ、ライブ会場という閉鎖的な空間の外で、より如実な形で顕在化しているように思う。



以上、これら3つのテーマは深く結びついている。
いつでも・どこでも・だれでもアイドルになれる、アイドルを楽しむことができるユビキタス・アイドル時代を迎え、アイドルはますます、別の世界をもたらすものから、いまある現実を書き換える存在になりつつあるのかもしれない。その意味では、VR(ヴァーチャルリアリティ)からAR(拡張現実)へという技術革新と同様、アイドルもヴァーチャルアイドルから拡張現実型アイドルへ、という流れもあるのかもしれない。(しかしこの「拡張現実型アイドル」という表現、ちょっと自分でも何言ってんのかいまひとつなので、あくまでひとつの着想ということで、これから深めていきましょう。)
いずれにしても、地方アイドルの動向も含め、今年もアイドル現象から、やっぱり目を離せないようです。



参考文献

ディズニーの隣の風景: オンステージ化する日本

ディズニーの隣の風景: オンステージ化する日本

浦安を主な舞台として、現在の日常と非日常の歩み寄りの状況をうまく描き出しているのではないかと。

アイドル領域Vol.5

アイドル領域Vol.5

アイドルが拡大・拡散し、日常に侵出するとき、アイドルはどういう現れ方をするのか、またファンというものをどう考えたらよいのかという思考のヒントになる批評誌(であってほしい)