イメージで語る南北文化論

全く門外漢のことを印象だけで語りたい。
先日演歌歌手のイベントを見て、また演歌専門のCD店の店内を見て、演歌が扱う世界観のモチーフがある一定のパターンに偏っているような印象を受けた。
先日のUstはこちら→「2/21 演歌歌手イベントレポ&おはガールちゅ!ちゅ!ちゅ!レポ 」http://www.ustream.tv/recorded/29452809


可憐に咲く花、酒、失恋、別れ、耐えて生きる人生、冬、雪、風、坂。そして土地と歌が結びつく場合、都市部よりも田舎、僻地が、また南よりも北が、歌の舞台に選ばれやすいように思う(また名前についても、北がつく演歌歌手が多い印象がある)。辛さに耐え、人が見ていなくとも、人が何と言おうとも頑張って生きる人生。その悲哀を描くのが演歌、というイメージはある。耐える、また寒さのイメージに合致するように、演歌歌手は決して派手に体を動かしたりはしない。
そしてそうしたイメージと、演歌歌手の生き様自体もしばしばリンクし、「苦節何年」といった下積みを経てヒット曲に巡り合い、歌手として成功するという物語が好まれる節がある。



一方アイドルは、陽気で明るい曲のほうこそ定番とすることがほとんどである。したがって、アイドルの季節は夏であると言いたくなる。現にアイドルの衣装は基本的に、暑いからそういう格好をしているという風の、肌を露出したものになりやすい。へそ出し、脚出し、あるいは水着、ジャニーズでは上半身裸など。スマイレージの「寒いね。」の衣装も、そりゃそんな格好すれば寒いだろうよ、と言いたくなる。これも、アイドルが夏や陽気のイメージと結びつくからである(決してアイドルの肌の露出を、異性に対する性欲の観点のみから論じるべきではないと筆者は考える)。また、演歌の世界観と異なり、暑い中で陽気に騒ごうとばかりに、アイドルはよく動く。陽気だから衣装が露出の多いものになるのだし、陽気だからよく動く。そして動くから衣装も動きやすいものがよい(ので露出の多い衣装は好都合だ)。理にかなっている。
Perfumeのように「苦節何年」の物語が好まれるのはアイドルの世界にも共通している。しかしそれが曲に反映されることはあまりないように思う。アイドル楽曲は基本的に、明るい、+の側から人生を肯定する。一方、演歌は前述のようにどちらかと言えば暗い、−の側から人生を肯定する。



文学や芸術や演劇、およそ文化一般が、人生に資する方法として、以上のように(乱暴ながら)ざっくりと二つのやり方を考えることができるだろう。「北の文化」は、人生の悲哀を徹底的に描くことで、かえってそこに人間の希望を見いだしていく方法だ。これは自分よりも不幸な人間を見て安心するというようなものではなく、自分の人生と重ね合わせて共感をし、それでも生きていく人間の強さに希望を見る(あるいは弱さを弱さとしてそのまま認める)というあり方だ。「南の文化」は、人生を明るく楽しいものとして、ストレートに人生を肯定する。(もちろんアイドルソングにも悲しい歌はある。しかし勝手なイメージで言えば、演歌とはその「重さ」が全く違う。)



ところで、「北」というものが抱える哀しさをよく描いた作品として『逃北』を挙げることができるだろう。これは気鋭の漫画家にしてエッセイストにして、ラジオ・ニッポン放送ANN0(オールナイトニッポンゼロ)のパーソナリティでもある能町みね子による旅行記である。(ちなみにANN0では2012年10月9日放送回がなにやら評判だったという話を聞いたことがあるhttp://www.allnightnippon.com/program/zero/2012/10/109.html

逃北―つかれたときは北へ逃げます

逃北―つかれたときは北へ逃げます


作品内でも指摘があるように、「北」出身の文化人にはやはり「北の文化」と思わせる人が多い。彼らには「ドロッとした強い業を感じる」という。寺山修司(青森)、太宰治(青森)、石川啄木(岩手)…。(坂口安吾も新潟出身だったよ、能町さん。)
しかしこの『逃北』の描く北の哀しさと、演歌の描く哀しさはまた少し異なるようにも思う。個人的には、演歌には「ドロッとした強い業」は感じないかなあ。
能町本の詳しい検討についてはまたの機会に。




創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

Ustでも取り上げた演歌についての参考文献。
あと、Wikipediaの「演歌」の項目も後で見たら結構充実しているようでした。