AKB48という映画の感想

すっかりほとぼりが冷めたころにようやくといった感じですが、AKB映画とその前の騒動含めた感想です。書き足りなすぎますが、とりあえずあげておきます。うーん、不満。



AKB48の「峯岸動画」を巡る騒動の中で、「気持ち悪い」という言葉を多く見ることになった。「峯岸動画」を否定する言葉としての「気持ち悪い」。そこが気になった。
これまでも、AKB48に関しては、様々な批判があった。AKB商法、手ブラ写真集を巡る問題、あるいはAKBを論じる批評家に対する批判など。
しかし、今回はもっと生理的な反射的な拒絶感のようなものが湧き起こっていたように思う。
これに関して、まずぼくは2点、自分の考えを記しておきたい。1つは、「気持ち悪い」のところで思考停止をして、「気持ち悪い」にのみとどまる批判は不毛ではないかということ。ぼくは気持ち悪いこと、何か違和感を覚えること、心に引っ掛かることを大事に、それを思考の材料にするように努めてきた。それらが今まで当たり前であったことを相対化する契機をもたらしてくれるからだ。そうした自分の経験から見たときに、気持ち悪いからダメであるという考えはいささか乱暴で、また理解可能性を自ら遮断してしまうようでもったいないような気になる。しばしば「アイドルって宗教みたいで怖い」というつぶやきをTwitter上で見るのだが、それはアイドルも宗教も理解する気のない者の発言である。それと同様「気持ち悪い」対象をただ感情のままに非難する者は、ただ自らの趣味嗜好を正当化してそれ以外を認めない頑なさに閉じる人間だと言えはしないか。
しかし。もう1つは、とはいえ「気持ち悪い」と感じてしまうことそのものも、アイドルを巡って全く無視のできないことであるということ。アイドルは感情的に、表層的に消費されるものである。一目見てかわいくないと感じた対象を好きになることは普通ないのだし、印象の悪いものには負の感情しか生まれない。アイドルにとって、見る者へ与えるイメージこそ全てと言ってもよい。そしてまた、見る者は気持ち悪いものに対しては気持ち悪いと気軽に言ってしまえる。芸能とはそういうジャンルのものであると言える。
いずれにせよ、自分としては、「気持ち悪い」という反応が意味するものは何かと考えたい。何がそんなに気持ち悪いのか。かくいう自分も、峯岸動画は圧倒的に気持ち悪かったのだ。


しかしまずは、本当は、AKBの映画の感想を書きたいのだ。
AKBのドキュメンタリー映画第三弾については、宇多丸さんがいつものようにシネマハスラーですばらしい批評をしている。ぜひ聞いてみてほしい。
自分が映画全編を通して強く感じたのは、AKBが設定するルールがもたらす特殊な拘束力、その恐ろしい力だ。その中でも「恋愛禁止」ルールのことを考えないわけにはいかない。映画内では、昨年起きたできごととして、平嶋・米沢、指原、増田、そして過去の事例としての菊池が取り上げられた。そして映画外、つまり現在の問題として、峯岸、柏木のことも含めて考えてしまう。映画終盤、高橋みなみ峯岸みなみ松井珠理奈が恋愛禁止ルールについて語るシーンが印象的だ。
高橋は「恋をするのは当たり前」だが、「我々の恋は応援されないですよね」と寂しげにあるいは悟ったように言う。「誰に起きたっておかしくないじゃないですか。人間だから何があるかなんて分からないから…。そうなったらやめるしかないかな。いることでつぐなわなきゃいけないこともあるのかもしれないけど、やめなきゃいけないんだろうね。」
峯岸は恋愛禁止について「そういうものなんでしょうね、きっと」とすっきりしない表情で語る。
篠田万里子は「(恋愛したとしても)その人は運命の人だなって思わないようにします」と言い、松井は「恋愛なんていつでもできるんだもん」と、最もストイックなスタンスを保つ。
いずれにしても、恋愛禁止のルールは前提として、それに対する態度の濃淡はあるにせよ、それを認めるメンバーの姿が描かれる。もう少し、これをなんとかできないものかという気もする。



アイドルール』という永遠の名曲がある。



「アイドルとして生きるからには それはキビシイルールがあるの」と歌うこの曲は、いまのAKBをはじめとするアイドル現象への鋭い批評になっている。アイドル批評誌『アイドル領域Vol.3』の自分の論考より少し引用してみよう。


「歩く姿は清楚にwalking 話す相手にゃ天使のsmiling

このように、アイドルの「キビシイルール」がアイドルには外圧的に課せられているのだ、という構図かと思いきや、歌詞の途中でこの見方は大きく裏切られることになる。歌詞の別の部分を引用する。

オナラだなんてとんでもないです! きっと今のは…天使のフルート

アイドルはこうあるべき、という外からの視線を内面化しながら、一方で自らのルールを主体的に構成していく(オナラをしたら「天使のフルート」と言ってごまかすのがアイドルのルール!)というわけだ。他にも、

 カレシだなんてとんでもないです! 隣の人?は…赤の他人よ

というように、我々を煙に巻いていく。」



AKBが消費者の欲望をうまく取り込んで、成長を続けてきた現象であるなら、「恋愛」に関してももう少しうまいこと処理できないものかと思ってしまう。「アイドルール」のように、うまく煙に巻いてほしい。ぼくは、AKBを「ガチと思わせといてネタ」というやり方がうまいと思っていたが、こと恋愛に関しては、「ガチと思わせといてネタ、と思いきやガチ」という印象を受けている。



それはさておき。
映画を見た時に、峯岸を坊主に駆り立てた理由が、しっくりと飲み込める気になってしまった(分かった気になるのは危険だと承知していても)。映画でここまで、「恋愛禁止のルールを破ればやめなきゃいけない」と示されたうえでなお、実際にルールを破った峯岸がAKBに残るためには、それなりの罰/パフォーマンスが必要だったと。すでに映画内で、過去の恋愛沙汰が発覚した指原への処分に関して、恋愛がもとで解雇された経験を持つ菊池あやかは「処分が甘い」と漏らしている。処分の平等性を巡って、すでに疑義が呈されている状況で、それでもなおAKBをやめないための方法(やめさせないでほしいと懇願する手段)として、坊主頭を選択すること。
ぼくが峯岸動画を気持ち悪いと思ったのは、まずはアイドルが突如坊主頭にして泣きながら謝罪するという異形さに対しての自然な反応だったが、もう少し言えば、こうまでしてAKBという集団に残ろうとする(残そうとする)熱情を外から見た時に理解しづらかったということでもある。当人が坊主にすることをどの程度重大なものと考えているかとは別のところで、現代の若い女性が坊主頭にするということは、一般的な価値観からは大きく逸脱した、過激なものと見なされる。しかもその行動の原因は「恋愛(をしたことがばれたこと)」なのだ。



すでにいろいろなことに慣れてしまった我々(自分)には、来年のAKB映画で、峯岸がどう描かれるのかということを上映中に考える余裕すらあるだろう。そしてまた、峯岸が現にそうであるように、たとえば松井珠理奈が予期せぬ形で恋愛スキャンダルを起こすという残酷な想像をすることができ、それが映画を盛り上げるだろうことも予想できる。おおよそあらゆることが我々の想定内であり、また映画内で語られたように、AKBの中心である高橋みなみの想定の内でもある。
相変わらずぼくがいまだにAKBの現象に乗れないのは、やはりなんでもアリで、なんでも商品化してしまう際限のなさがその理由の一つではあると思うが、しかしアイドルというものがその「存在」という形なきものを売りにしている以上、全てのアイドルはその「暴力」から逃れられない。
ぼくが昔から考えていることは、アイドルの「キビシイルール」がアイドルを殺さないこと、アイドルを決定的に不幸にしないこと、だけである。そこだけは自分を含めてすべての人に、よろしくお願いします。



アイドル領域Vol.3

アイドル領域Vol.3