アイドルは表意せず、憑依する


「Over The Future」は素晴らしい曲だと思う。もちろんこの曲の聴き所は最後の「おーばーざ・ふゅーちゃーわぁ〜〜!!」である。重要だと思うのは彼女達がすこしも、「over the future world」とちゃんと発音する素振りを見せないことだ。アイドルに無理して英語の歌詞を歌わすとこうなる、という話ではなくて、これは意図的に作られている。ここにおいて、むしろ歌詞はその意味内容を伝えるためにあるのではなく、言葉が意味内容を超えた叫びとなることで形式としてメッセージを聞き手へと非論理的に、奇跡的に跳躍させるために必要な生け贄なのではないか。歌詞は言語としての意味をなさなくなった時にはじめて、形式として、音楽の力として聴衆に訴えかける。我々が一緒に「わぁ〜〜!!」と叫ぶ時、ほとんど未来を超えかかっている自分たちがいるのだ。
ところで今思いついたが、この音楽の力をアイドルに置き換えた場合、アイドルが行為でなく、ひたすら存在としてのみ存在する時、または記号でなく身体としてある時、あるいは、媒体としてでなく存在の裸形として立ち現れる時、アイドルが何かを伝えるのではないか、と思う。生きる意味だとか、言葉にすれば陳腐なことをぼくらに伝える。その伝え方というのは、メッセージが何かに乗ってやってくるのではなくて、直接刺さるように。アイドルがぼくになることで、またはぼくがアイドルになることで。伝わるというより、まさにそれになることによるような伝わり方。憑依しまたは、憑依されるような形で、悟る。(何をいいたいかぼくもいまいち把握できていない)
さらにこれは、愛の言葉においても同じであるという気がする。「愛している」は、もはや言葉としての力を持たない。むしろ、その「愛している」を取り巻く身体性――音声そのものや、それを発声する身体――こそが問題になっている。そして「愛している」が伝わるためには、自分が相手になるくらいの飛躍が求められていると感じるのだ。