映画『ラースと、その彼女』

これについては、長く書かなくてはならない。
近日中にでも、少女論・人形論をまとめたい気分だ。
渋谷シネクイントで見る。設定そのものがコメディ的であるがゆえに、様々な読み取られ方がしそうな映画である。『キサラギ』もそうだったが、見る者の立場によって見方は相当に変わってしまうだろう。登場人物の誰に感情移入できるのかで、笑い方、泣き方は変わる。
あらすじ:アメリカ中西部の小さな町に暮らすラースは、優しくて純粋な青年で町の人気者だが、ずっと彼女がいないために兄のガス、義姉カリンらは心配していた。そんなある日、ラースが「彼女を紹介する」と兄夫婦のもとにやってくる。しかしラースが連れてきたのは、ビアンカと名づけられた等身大のリアルドールだった。兄夫婦を始め、街の人たちは驚きながらも、ラースを傷つけないようにビアンカを受け入れようとするが…。(goo映画より)
ネタバレをするが、最終的に、ラースは職場の女性といい感じになって終わる。この終わりは凡庸である。だけれども、その凡庸さにどのように至るかが重要なのだ。この映画を、決して「現実⇔虚構」の二項対立の中で、虚構に耽溺した状態から、現実へと戻れ、というような、典型的なオタク批判と同列に見てはいけない。
映画中、人形であるビアンカに対して、「これは造花だからいつまでも枯れないよ」というラースのセリフがある。人為的に造られたものは死なない、それは生きていないからだ。人形であるビアンカは死なないはずだった。だけれども、ラースが彼女を愛した時、彼女は死んでしまうのだ。
ぼくはまた、自分に置き換えてしまう。
アイドルを愛するとはどういうことか。アイドルを愛したら、アイドルは死ぬのではないか。
ところで、ぼくはこの映画を二人で見たが、そのことがまた映画の内容とリンクして、奇妙な感覚だった。ぼくはラースだ。現実から逃避している気もないし、虚構とか言われそうなあるものが、現実の代替物だとも思わない。ただ現実を生きるのみだ。