少女たちの憂鬱

ヴァニラ画廊『こやまけんいち展 「少女の胸を綴じる鍵」』を見にいく。

少女たちの憂鬱

少女たちの憂鬱

こやまけんいちの描く少女は、顔面だけが肥大して、他の身体が細く伸びている。痩せているというより、ただ細い。もちろん胸のふくらみなどもない。
少女たちにははさみが似合う。傷つけるものとしてのはさみ。けれども、ナイフとか包丁とか、そんなものではない。腕にきりりと傷痕を残したり、ちょっと刺してみるためのはさみ。死ぬことはない。
少女には血が似合う。もし少年が血を出したとしても、それは外面的な血だ。外からやってくる血だ。少女は内面的な血を流す。生理というのはその象徴的な事例ではあろうが、そんなものでなくとも、少女は血を中から流れ出す。
少女は、さまざまなまなざしの中で、繊細で、狡猾で、そして憂鬱だ。
作品の一つに、「よのなかねかおかおかねかなのよ」というタイトルの絵があった。有名な回文だ。
顔かお金で決まる世の中。そこで少女は、少女であるという弱さをなんとか強さにしようとするのか。少女の表情は一様に憂鬱だ。少女たち同士も、ちっとも楽しそうに見えない。孤独を保っている。弱さそのものが、圧倒的な強度としてぼくに迫ってくる。そんな感じ。
「これ見ました?」とその回文を指して、こやまけんいち氏と思しき方が声をかけてくださった。その回文が好きだと言う氏の気持ちはよく分かる。ぼくもすきなのだ。「世の中ね、顔かお金かなのよ。」ぼくがこの回文を好きなのは、その完成度の高さと共に、人間の悲哀、そしてそれを超えていく強さを感じるからかもしれない。少女たちは圧倒的に弱い。内で悩み、外からの様々な暴力に晒されている。それを悟り、でもそれにどこかで抵抗したい、そんな矜持もありそうな。
こやま氏もまた少女なのだろうと思う。「描いている絵は少女だけれど、自分自身でもあるから」と、『胸ぺったん文化論序説』のインタビュー記事にもある。そしてぼくもまた、やはり少女なのだ。