ヲタ芸再考(4)

4.ヲタ芸の死
ハロプロの現場である程度確立したヲタ芸の型は、主に秋葉原で活動するようなマイナーなアイドルに対する応援の文化としていつの間にか定着したらしい。
気がつけば、昨年、今年と、メディアで取り上げられるヲタ芸というものが、もはやハロプロとは何の関係もない現場におけるものになっている。フジ深夜「コンバット」における「オバ芸」にしても、NHK教育で2007年5月に放送された「一期一会 キミにききたい!」にしても、僕からすればなんだかずいぶんヲタ芸が遠いものになったな、という印象。
昨年4月には「ピュアロマンス」という、「ヲタ芸を世に広めよう!」というコンセプトのアイドルまでデビューしている(9月に解散)。(参照 ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=oupZqTqjZyQ)映像を見てもらえば分かるけれど、こんなマニュアル化された「ヲタ芸」は、もう死んでいるのだ。
結局、僕が何に一番引っかかっているかというと、別に僕自体がヲタ芸師ではないにしても、「ヲタ芸をプライドを持ってやれ」という感覚はあるのだ。ヲタ芸の隆盛期、ヲタ芸は確かに芸術であったのだと思う。それが迷惑行為であるという議論の範疇に収まらないところで、ヲタ芸師は誇りをもってヲタ芸をしていた。その必死さは必死さとして評価してよいものだった。当時のヲタ芸は、「迷惑だ」という感覚の前に、周囲の人間に「なんだかすごいものだ」という感嘆の情をもたらすほど、エネルギーに満ち溢れていた。多分、ヲタ芸が迷惑行為としてすぐに収束してしまわなかったのは、それが「すごい」ものだったからだと思う。現に、当時はそれに感心するファンもいたし、それも面白いと思って帰るファンも多くいた。2003年秋には慶應大学三田祭にて松浦亜弥のライブが行われたが、帰りがけ、一般人の大学生は、「ある意味面白かったな」と言いながら歩いていったことを記憶している。ともかく、当時のヲタ芸は、それそのものも含めて現場を盛り上げる現象として機能していたことは否めない。僕が無条件にヲタ芸を否定する議論に納得が出来ないのは、こうした経験を念頭に置くとき、本当に、常に絶対的に「ヲタ芸」を悪と言えるのか、というところが引っかかるからだ。少なくとも、ハロプロの現場のルールとして、「ヲタ芸」がOKであるという瞬間があった、もちろんそれを迷惑と感じるヲタを含みながらも、現場の総体としてはヲタ芸を許容せざるをえないような空気を、2002〜2004年のハロプロの現場が持っていた、という主張を、僕はやはりしたいのだ。ただ、その主張をした上で、やはり、いまやヲタ芸はその寿命を迎えようとしている、と言わざるを得ない。周囲の者を打ち震わせたヲタ芸の精神は、見る影もないのだ。
ヲタ芸は、一般的に認知され、マニュアル化され、こういうものだ、と雑誌で特集され、一般人がふざけて真似し始めたときに、もう死んだ。それは仕方がない。そもそも、迷惑行為でもあるヲタ芸が、長生きできるはずもなかった。
ハロプロのアイドルは、何度かヲタ芸を取り上げて、その存在を認めてくれた。それは多分、その必死さがなんだか知らないけど「すごい」ものだったからだ。それが、憤りよりも笑いと感心をもたらす魅力を持っていたからだ。しかし、その「すごさ」は時の経過により、また模倣者たちにより劣化する。残念ながら、その寿命は2年そこそこだった。もし、榊原ゆいの現場でのヲタ芸が、そうした魅力を感じさせる前に、迷惑行為としてのみ、演者そして聴衆の前に立ち現れたなら、それはもう迷惑行為以外のなにものでもないのだ。僕にはヲタ芸が「迷惑行為」とただ名付けられてしまうことの寂しさとあきらめがある。確かに、もう、そう名付けられてしかるべきだ。
ヲタ芸はもう、それを認めることによって支持者を増やそうとする、またはヲタ芸そのものすらアイドル存立の条件とするようなアイドル(例えば東京メトロちゃん 参照 ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=0P4L6tBsOGg)においてのみ、もとの存在意義をねじまげてそこにある。だから、僕はもうベタな主張――それを迷惑と思わないアイドル・現場でやってください――に落ち着かざるを得ない。
ハロヲタとしての僕は、モーニング娘。文化祭といったような、まあスペース的にはヲタ芸が許容され、公衆のマナーとしては極めてグレーながらも放置されるような場でのみヲタ芸と再会を果たして、ヲタ芸華やかなりし時代の熱に辛うじて触れようとするのみであろう。それは同窓会のようなもので、もうあの頃の熱さを感じることはできないのだ。
ヲタ芸は死んだ。

――おしまい――