すかいらーくグループリーグ最強決定トーナメント

久しぶりにガッタスの試合を見る。有明コロシアムに行くのは初めて。僕はスフィアリーグガッタスしか知らない。当時はガッタスカレッツァとドリームが三つ巴で、それ以外はフットサルに関しては素人のアイドル予備軍みたいな構成だった。
今日の出場チームは、アディダスや、スポーツトレーナーのチーム、ほか資生堂日本航空など、企業のチームが主で、スフィアより競技的な側面も強い。それにしても、第1試合が神過ぎた。
「adi-UNIT5」と「BUONE CONDIZIONI」、どちらも半端ないレベル。ミドルシュートの威力がすごい。そいでもってレベルの高いメンバーが3、4人いる。十分にスポーツの試合として見るに堪えるものになっている。シュート力のある「BUONE CONDIZIONI」(ブオネ コンディシオニ) が勝ち上がったのだが、僕はこのチームを「ボーノ紺でしょうに」と呼ぶことにした。結局決勝まで勝ち上がるのだ。
さて、我がガッタスであるが、残念なのは仙石・能登・武藤が登録メンバーから外れたために練習すら見学だったこと。最近仙石のかわいさが気になっている身としては残念だし、能登の運動音痴ぶりも見られなかった。左で強いシュートが打てる武藤が試合に出ないのは戦力的にも痛いと思った。その代わり、昨年夏の公開練習の時期にはまだ加入していなかった菅原・永井という選手はしっかり活躍した。あくまでメインどころを多く起用しつつ、要所で彼女達を使う采配は大会のあり方として正しかった。ガッタスの場合特に、勝敗にこだわる側面と、誰が出るかという側面のバランスが問われている。その点は全く問題がなかった。
さて、アイドルにおけるコンサートとフットサルの大会の違いは何か、ということを確認したい。コンサートには勝敗はない。フットサルの試合には厳然と結果が出る。
『ただいればよい(存在の絶対的肯定)というのではなく、なにをしたか(いい/悪いプレー)で評価される世界。これは人間界である。「よっすぃー・りかちゃん」という絶対的なアイドル肯定ではなく、スポーツプレイヤーである人間としての「吉澤・石川」扱い。これがうれしいということ。』(階層化戦略
アイドルは存在そのものが肯定される。存在自体が評価される作品なのだ。フットサルをプレーする選手は、自らの存在とプレー(何をなしたかという意味での「作品」)が乖離することによって、人間として評価される。
ライブにおいて、つまりアイドルとして彼女達が存在する限りにおいて、彼女達の呼称はニックネームである。ニックネームで呼ばれることはアイドルである証であり、そういう偶像として扱うというヲタの宣言でもある。一方ガッタスの現場では、「ガッタス応援団」が配布した応援集のプリントにも明らかなように、彼女たちを決してニックネームで呼ぼうとしない。徹底してアスリートとして、人間として対峙しようとする。そこらへんを明らかに意図して行っているのが分かる。というかもう、アイドル側だけがどうだと言うのでなく、応援をしている我々ももはやヲタであると言えるのか、というくらい、メタ的な視線を持ち込めない、応援する「サポーター」であった。
僕は大会開始前の練習時のガッタス応援団の応援を正直言えば、メタ的な視線を持ち込んで見ていた。「なんであんなにプロチームを応援するようにガチに応援しちゃってるんだろう」という嘲笑に近いもの。ところが、試合が始まってみれば、(もちろんガッタスが好きであるという前提がなければいけないのだけど)メタ的視線を持ち込むことが困難になる。ライブであれば、例えば「レインボーピンク」を歌う道重に対して、「なんでそんなバカな曲を必死で歌っているんだ!」という突っ込みが成立する余地があるのに対し、ガッタスの試合には「なんでそんなに一生懸命になってんの」という突っ込みは持ってきづらい。もちろんスポーツの恣意的なルールづけに対して、「なんでそんな競技を一生懸命にやってんの」という突っ込みは論理的には可能なのだが、現実的にガッタスの現場で起こすことは不可能だ。とりあえずスポーツのルールに従って勝敗を決めていくことに異論のない空間内で、その大会をメタ的に楽しんでいくことは出来ない。ともかく、熱中するのみである。後ろの席で「りかちゃんしっかり!」とかうるさい「サポーター」がいて気になっていたが、しばらくすると自分も同じようになっていた。そしてゴールが決まれば、思わず両拳を突き上げて飛び上がって喜ぶ。
僕が唯一メタ的に捉えたくなったのは、初戦のPK戦で、ガッタスがリードされてから相手側のPKがあからさまにヘボくなったことだけだ。うがった見方をすれば、ガッタスに勝たせるという大会運営サイドの配慮があったんじゃないか、みたいになるんだろうけど、それはないんだろう、たぶん。
ともかく、視線が統一される感覚。「サポーター」は非常にマナーがいい。ほとんど大会運営を阻害する要因はないし、他のチームに対する拍手も忘れない。なにか「茶化す」というような視線で見る「ヲタ」はいないんではなかったかと思う。それがとても新鮮だった。表裏だとか、台本だとか演出だとかとは無縁の、ただ見たままのプレー、見たままの結果が支配する世界。とても分かりやすいし、とても信じられる世界だ。②女性アスリート・四元奈生美でも書いたが、アスリートがアイドル化するのは、こういう点での純粋さ、裏のなさ、分かりやすさがあるだろう。僕はなんだか純粋にアスリートを応援するいい子ちゃんになってしまったようなむずがゆさも感じつつ、ただそのすがすがしさに酔ってもいた。尊敬すべき存在として、アイドルがアイドルとしてあり、また時に人間としてガチの世界でも勝負していることを見るのは、彼女達にとっても我々にとってもとてもいいバランスであるように思われる。
僕は特にガッタス以外の試合では、表層的な身体性(つまり胸が大きいかどうか)くらいしか見どころがないのではないかという軽薄な懸念を抱いていたが、そんなことは全くないのだ。背後から激しくチャージする、キーパーと交錯する、転ぶ、体を入れてボールをキープする、そういう諸々の身体の所作が現実感を作り出して、表面的な身体感を超えた交感をもたらした。そこに彼女達がいるという事実が迫ってくる。だから僕は逆に言えば僕が彼女達に影響を与えることもできるだろうと信じた。
ガッタスに声援を送るとき、それはコンサートにおける声援とは全く質を異にする。基本的にコンサートにおける声援は自己愛の側面が強いと言ってよいのに対し、ガッタスに対する声援は、ガッタスの勝利のための声援である。勝ってほしいと願って叫ぶ声である。そこにはガチの現実しかない。その現実感の熱さ!決してライブと優劣をつけるつもりはないが、しばらくこういう感覚はなかったなあ。決勝は途中までよく頑張ったけれど、実力の差が結果となった。「よく頑張った」と素直に声に出したくなる。純粋に何かを応援して、すがすがしさと熱さが胸に残る。素晴らしい体験だ。それじゃあ、ライブはもう僕に必要ないか?アイドルは僕に必要ないか?いやいや、「現実」だけじゃあ、ねえ。
いよいよ4月20日に合同紺が始まる。「仲良しバトルコンサートツアー」と銘打った以上、ガチのバトルも、仲良しの物語も両方ほしい。それがアイドルのバランス感覚なんだから。