がんばれと言われたのでがんばる。

℃-uteイベ、大阪エルシアターに言ってきた。
2週連続イベントでの遠征とは、自分もがんばっちゃったなと思う。
これが今年の参戦数の39回目。自分の中で40は行きたいと思っていた。後はメロン紺に行きたい。


今回のイベは追加公演ということでミニライブもあっという間に終わってしまった。
で、握手会。かなり高速なので、なっきぃになんて言おうか、ということだけ考える。僕は前回もそうなのだが、こちらから伝えるのではなくて、あくまでアイドルから伝えてもらって僕が幸せになる、ということを考える。
わし「がんばれって言って!」
なっきぃ「…がんばれ!」
……なっきぃにがんばれと言われたのでがんばる。がんばれる。そういうことである。くだらない、なんてくだらない。そこにおける言葉の力の弱さよ。そうじゃなく、そこにおける場の力。
普段僕らは不特定多数に向けて発された曲のメッセージを、まさに自分に向けて歌われた曲であるかのように信じることで励まされる。そこでは単なる歌詞の文字面を超えた楽曲の力がある。同じ歌詞でも誰が歌うか、どんな曲かで我々の受け取り方は変わるだろう。例えば過去、モーニング娘。が「I WISH」を歌うことで多くの人間がたぶん「人生ってすばらしい」と思えた。それは論理的説得ではなく、信じさせるということだ。
そうした不特定多数へのメッセージでなく、握手会は特定の個人との触れ合いの場。僕はなっきぃから僕だけへのメッセージが欲しかった。僕だけにがんばれと言ってほしかった。見事なまでの自作自演である。だけれども、それでがんばれる。もはや僕はそのときの状況をほとんど覚えていない。握手しながら言われたのか、握手の手が離れた後に両手に握りこぶしを作って「がんばれ!」って言われたのかも判然としないのだ。ただなっきぃに「がんばれ」と言われたという事実のみが残った。僕はその言葉に依存して生きていける。それは単なる言葉を信じるというのではなく、なっきぃを信じるという行為なのである。