松浦亜弥や

18:00
松浦亜弥コンサートツアー2007秋 〜ダブル レインボウ〜

僕は昨年の松浦秋紺に対して、松浦の人間宣言と称して、釈然としない思いを記した。(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20061022/1161548511
アイドル「あやや」が完全に歌手「松浦亜弥」になってしまった、と未練たっぷりの日記を書いた。
じゃあ今日マツウラアヤはどうだったかというと、「松浦亜弥や」くらいだったんじゃないかと思う。僕は行ってよかったと思う。これは僕の変化なのかもしれない。今年ハローでいろんなことが起こって、それを経てのことで、なにか自分の感受性に変化がおきたのかもしれない。そしてまた、松浦の方でも変化があったのかもしれない。今調べてみたら、去年のセットリストが、取り立ててノレない曲揃いというわけでもない。ただ、僕は「ね〜え?」をちゃんと踊らない去年の松浦への恨みは深かった。そのことも影響しているのだろう。
ともかく、完璧すぎるという欠点を除けば、特に何の問題もないライブだった。いやもちろんこういう言い方はよくない。僕は松浦亜弥はすごいと思う。あれだけのアイドルでありながら、ここまでの歌手にもなれる。ハローにおけるアイドルで、実力・才能でここまで尊敬に値するライブができ、一般への訴求力もあるのは松浦が一番だと僕は思っている。僕は松浦に敬意を持った。今日見た松浦は、アイドルであった時期もうまく咀嚼して、糧にした上で理想的な形で歌手になっているように思えた。それがもし、ヲタに対する裏切りだと僕が思うとしたら、それは僕の方の怠慢・傲慢だろう。彼女はガラスケースに収まっていられるような器ではないのだ。桃色片想いの後でステージ上の彼女がそうしたように、彼女自身の才能が、アイドルという壁をぶち破って歌手になって飛び出したのだ。「曲に自分が追いついた」とまで言うようになった松浦。今の僕は彼女を素直に認められるくらいには成長したらしい。
そういえば上記の人形展では虫を愛でる少女というのがあって、少女がたくさんの蝶に囲まれているのだが、それに関するコメントとして、少女もいつかさなぎとなり蝶となっていくのだろうか、みたいなことが書いてあったことを思い出した。松浦は美しい蝶になった、だからヲタから甘い蜜を吸ってもいいんじゃないかな。
さて、相変わらず絶好調の松浦MCだ。「2ちゃんねるは、基本的にいいこと書かないから見ない」とか、「水着写真集があったら見るんでしょ」とか、ヲタをうまく煽る。ある種ここまで言えるのは、アイドルでなくてもよいという強さである。
気になったMC。よくファンサイトを見るという松浦。「やせた」と書かれていたが、その原因を勝手に議論しないでほしいと言う。家族とうまくいってないとか、ハロメンとけんかしたとか。夏にサウナのような環境で舞台の稽古をしていたから、ということで松浦は話を収めるのだが、即座にあるヲタが叫ぶ。
「ほんとはー?」
これこそ、対アイドルのコミュニケーションの象徴であった。いつまでも真理にたどりつけないような感覚。情報伝達が極度に限定されているが故の不信。「だから今言ったじゃん」と松浦がいかに必死になろうとも、それをその場で証明する手段がない以上、あとは信じるか信じないかはヲタにゆだねられる。
ネットでのコミュニケーションも同様。文脈が十分に与えられず、書き手の表情も、書き手に関する情報も不足している状況でコミュニケーションをとらなければならないときの齟齬。一度何か破綻をきたしたときに、そもそもの信頼関係がないだけに修復することが極めて難しい。これはまさに自分が最近経験したこと。
そしてもちろんこうしたことは、結局のところコミュニケーション一般に広げて語れる問題ではある。それが、情報が限定されるメディアを通したコミュニケーションの場合に如実に現れるというだけだ。ともかく、そこにおいてははじめにおける「信じる」という行為が重要になってくる。もちろん、できる限り共有された言語で語るという心がけが必要にはなるが、根底のところで「通じるだろう」と信じる、また、相手が嘘ばかり言うことはないだろうと信じる、ということが必要になる。情報を主体的に判断していかねばならない「メディアリテラシー」なんかよりももっと根底のところで、僕らは「信じる」ことからコミュニケーションを始めている。
アイドルと対峙する時にも、僕らは「こちらからあちらへ伝わっている」「あちらからこちらへ伝わっている」と信じているのだと思う。それが貴重なものと分かっているからこそ、必死にもなる。
「伝わると信じて、伝えようとする。理解できると信じて、理解しようとする。」
それが、愛?
うそくせー、なんかうそくせー。
「ほんとはー?」