イメージの総体としてのアイドル

さて、そこで。「自然・天然 ⇔ 人工」というのは大事な対義語だ。重要な対義語だが、それを超えていけたらいいと思う。
ハロプロ新人公演は、アイドルの卵をどんどん成長させていきますよ、という公演である。こんなんいますから覚えてくださいね、という場である。我々がその中の誰を推して、応援して、デビューさせていくか。そこにおいては、アイドルを継続的に安定して供給するシステムが志向される。我々がアイドルを作っていく。
一方で、前田のひ弱さ・無垢さを見ると、天然の重要性が分かる。芸能界にもまれるうちに、垢抜けていってしまうことを恐れる。そういう、もとの素材のよさ。
アイドルが商品として成り立つためには、当たり前だが、原料→(加工)→商品という流れを経る。であれば、やっぱりどっちも大事なのだ。原料のよさをうまく利用した加工を加えていってくれ、ということだ。不適切な加工をするのがまずいのだ。
そこにおいては、天然だとか人工だとかの区別はない。ダイアモンドという宝石を、人工物と言うか、天然と言うか、という話である。


ところで、「加工」というイメージ戦略を経て少女はアイドルになれるのだが、今まで再三確認してきたように、「少女」への負荷が大きすぎるのではないかという懸念がある。アイドルをしている少女に、アイドルイメージの100パーセントを負担させるな、ということを言っておきたい。その人間だけでアイドルをやっているんじゃない。アイドルは現象なのだから、加工するという作業を経たメディアにおける総体がアイドルなのだ、と認識した方がよい。
例えば、最近参考にしているPerfumeだが、歌声に基本的にエフェクトがかかって機械的な声になっている。それを嘘だと言う奴はいない、たぶん。ここではアイドルイメージのすべてを人間が担うことをしていない。ライブにおいて言えば、口パクもそう。あまりにもやりすぎるのは考え物だが、振付を人間が担当し、音声は機械にまかせる、というやりかたは、総体としてのパフォーマンスの精度を考えたときには認めるべきであると思う。昔思った。「ミニモニ。ジャンケンぴょん!」を踊りながら歌うのって、無理だわ。
あるいは、虚構化の例としての久住小春。仮定として、もし久住小春という名を完全に捨てて、「月島きらり」という芸名にしてしまったらどうなるだろうかと考える。アニメキャラが現実に出てきた存在、という扱いになり、状況は劇的に変化しないか。もとはアニメキャラなのだから、何かのイベントの時だけ現実に身体をもつようになるということなのだ。よって、「普段何をしているか」ということは問題になりえない。戦隊もののヒーローが、なんとかレンジャーショーをどっかのショッピングセンターの屋上でやったとしても、ショーの後のなんとかレンジャーの行方は誰も気にしないのだ、あるいは適当なところで納得するのだ。子供の方がなんと倫理的。そういうことになれば、アイドルへの負荷は軽減される。僕はよく知らないが、声優アイドルと言われる人たちってこういうことではないんだろうか?(知っている人コメントよろしくです。)