「感情労働者」は「アイドル」である

なぜ「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処されるのか(http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070611#p1)は非常に興味深かった。
それとは多少話がずれるかもしれないが。サービス業の中でもある種の仕事は、サービスを売っていない。人間を売っている。最近そう感じる。僕らは過剰に「人間」であることを求められている気がする。笑顔、思いやり、顧客一人一人に親身に。その顧客が特別扱いされているという意識を持てばロイヤリティーが上がる。つまりは、その顧客が他の誰かと代替可能ではないオンリーワンだと感じられるようにサービスせよ、ということだ。ん、それって、目指すところはアイドル―ヲタの理想的な関係と同じではないですか。アイドルが「自分だけのアイドル」という感覚をヲタに持ってもらうことと同様に、サービス業は「自分のことをよく分かってる・特別扱いしてもらっている」と思わせることが勝負。
で、そんな風に、単なる商品と貨幣の等価交換ではなくて、そこから超え出るように思われる(実際は超えないのだが)「人間」としてのコミュニケーションというところこそが「感情労働」の真骨頂というか、地獄というか。「私は商売のことを抜きにしてあなたのことを真剣に考えた結果、あなたにとってベストの選択はこうだと思います」という商売。そのために僕らは、どの顧客に対してもオンリーワンの接客をしなければならない。どんな悪質な顧客に対しても常に笑顔、親身に、人間的で信頼できる人物でなければならない。あーそうか、僕の仕事はアイドルだったんだな。顧客の求める過剰な「人間」というのはこちら側からすれば「アイドル」。そう、僕らが求めるいつも笑顔を絶やさず常にファンのことを思ってくれる彼女達は、人間としては過剰だ、それを「アイドル」と言うのだった。
たまに、笑顔を記号として作っているだけの自分を感じることもある(ちょうど浦沢直樹「MONSTER」の登場人物グリマーが、笑顔の作り方に従って笑顔を作るように)。僕は過剰に「人間的」であろうとすると(もちろん過剰に「人間的」であろうとすることは非人間的なのである)、自分の身体性がなくなるような気がする。すべての所作が演じられている、主体性が剥奪され、キャラクター化するというか。
それに疲れた僕らは、マクドナルドへ行って、「儀礼的無関心」に安心する。あるいはネット空間の匿名性に安息する。いやしかし、そこにおいても、僕らの身体はどこにあるのだ?ではライブ空間は、僕らの身体性を確保する場であるか?…要検討。