スクリーミングアイロニスト

先週のシークレットフェスタで思ったこと。
僕は叫んだのだ。現状を意味的には否定しながらも形式的には肯定する振る舞いなのだ、「NONO-!」という叫びは。
さて、僕だけではないような気がするが、「叫び」という行動の意味の変遷ひとつとっても、ヲタとしてのスタンスが分かるというものである。
2001年〜2002年、ヲタ当初の自分は、主に「自己証明としての叫び」だった。遠い席でも構わず叫んだ自分は、その叫びが対象に届くかどうかを問題にしていない。叫ぶことによって自分がヲタであることを確かめる行為。逆に言えば、まだまだヲタとしてのアイデンティティが確立しきっていない時期、僕は携帯ストラップやらTシャツやら、アイロニカルというにはあまりに華美に装備してしまっていた。
2003年〜2004年、ヲタとして確立した僕は、自己顕示欲に加えて、レスをもらいに行く手段としての叫びをしていく。スケブを積極的に使っていくのもやはりこの頃。
2004年〜2005年、だんだん叫ぶということをしなくなる。単純に熱が冷めたというのが一点、叫ぶ必要性も感じなかったというのが一点。実際、良席で見ることも少なかったからなあ。
2006年〜2007年、やはりあまり叫ばない。ただヲタ熱はぶり返している。むしろののに萌え死ぬときは言葉を発せなくなるのだ。ただ良席では叫ぶ。昔に比べれば、冷静に叫んでいるという言い方ができるかもしれない。昔は、自分の気持ちやら「萌え」やらの表出として叫びがあったが、今は叫びは「手段」になっているという気がする。それはヲタとしての成熟を表すかもしれないが、それは一長一短である。
何かを伝えるために叫ぶ、コミュニケーションをとるために叫ぶことと、ただ自己満足のために叫ぶこと、しかしこれ、どちらがアイドルの権威を保つものかは実は微妙だ、と今書いていながら思った。どちらがマジヲタ的だ、DD的だって、簡単には言えなそうだ。今までは、前者がマジヲタ、後者がDDみたいに書いてきたけれども。ちょっと考えがまとまらないから、今後考えていかないと。