飛躍の倫理

ちょっと過激にいってみます。
「モーニング娘。」らのコンサート会場で男性転落
まずは、知り合いでないことを祈っておいてから、これもまたアリだよなと思う自分である。
ふと2003年の代々木ハロ紺を思い出す。夜紺が終わって、外で花火が上がった――ヲタがライブ終了後の高揚感の中でサイリウムを空へ投げ合ったのだ。その花火大会に巻き込まれて、僕はこれが祭りなんだと思って、変にうれしかったのを覚えている。ものすごく危なかったのにもかかわらずだ。
今度は人が降ってきたのか。冗談にするにはあまりに重い出来事である。でも、僕はあえて言ってしまうのだが、こういうのも「アリ」だと思うのだ。ここで言ってる「アリ」ってのがどういう意味かすぐに説明できない。
祭はしばしば生け贄を必要とする。牛追い祭やだんじりみたいに、人の死というものをほとんど前提として成立してしまうような祭がいまだに存在するし、それは熱狂的に支持されて今日に至っている。
僕はハロ紺においては、例えば卒業コンサートがある意味アイドルの死の儀式だと思っていたし、あるいは新メンバーお披露目というのも、欲望にまみれた大人の前にかよわい少女を引きずり出す「生け贄」の儀式と言ってもいいように思えた。社会性・秩序、その中でも最もタブー視される生殖・死をもって祭りは祭りたりえるとするなら、ハローもしっかり現代の祭じゃあないか、なんて。
で、今回考えてしまうのは以下のようなことだ。ヲタ転落に関して、二つの反応がまず考えられる。
①心配。今後このようなことがないようにしよう。
②嘲笑。はしゃいでいたんだから自業自得。
けれど、そうじゃない捉え方をしてもいいのだろうか、ということ。「祭だから、オッケーオッケー。はしゃいじゃって、死んじゃってもいいじゃん。」と明るく言い放っていいかということ。
僕は、多くの会場で、(2階、3階の手すりが低いなあ、一歩間違ったら落ちるぞ)と思っていたし、(推しの名を叫びながらダイブしたら、それはそれで神だな)と考えたこともある。祭りの場で、「普通の感覚」でものを言うことが正しいのかどうか。僕は、「はっはっは、ばかだなあ。でも俺もやりかねねーな、ふふん、ヲタ万歳」と言ってもいいですか?ここで、「二度とこのようなことが無いように」、スタンド席が立ち見禁止になる、ということほど興ざめなことは無いと思うのだ。
祭りに犠牲者がつきもの、というのは、決して人命軽視ではない。人でないなにものかへの畏怖であり、生命というものへの敬意の表れですらある。ここにおいては、「自分が犠牲者だったら嫌だろう、だから祭りをやめよう」などという論理は全く通用しない。人間の及びもつかない大きな何かに身を委ねる悟り。だが、我々の住む都市部にそんな危険な祭りはほぼ存在しない。代わりに理不尽な形で死んだり殺されたりする人間は後を絶たない。
僕はこの事件で、ヲタが何かを「学ぶ」なんてことがないように祈る。何年かに一回くらい、はしゃいで落ちるヲタがいたっていいじゃないか。本当に(死んでもいーや)と思ったことがあるヲタなら、現場で殉死したっていいんじゃねえのかい。(…って、言っていいのかということ。)

現場って、論理で動いてない。飛躍、跳躍してるんです。狂喜乱舞してるんです。そこで、道徳って唱えられるんですか、という疑問。ヲタ芸の議論もそうだ。ヲタ芸批判の人たちって、ほんとに正論なんだけど、わかってないなぁ、みたいな。あまりにも現場の事態を理詰めで攻められても、説得力ないよなという思いもあって。
ただ一番の問題は、この「現場」というものを祭りだと思っているヲタに対して、祭りじゃないと思っているヲタがいると(つーかいっぱいいるんだけど)、はなっから土俵が違うところで言い合いをする構図になるので、収拾がつかないということにもなってしまうのだ。で、僕はやはりどっち側かというと、祭りかなあと。だから、過度に現場の道徳、マナーを持ち出すヲタには興ざめをしてしまうところがある。難しい問題なんだけどさ。
「10th Anniversary」って、10周年記念祭って訳しちゃっていいんじゃないの?祭りだよ、祭り。