モーニング娘。学会・外

遅ればせながらですが、14日に行われた第1回モーニング娘。学会を振り返ります。
僕にはこれを迎えるにあたって二つの懸念事項があった。
一つは、会うことそのものが目的化して、他のヲタのオフ会と同様のぐだぐだなものになるということ。
二つは、他のアイドルヲタも出席する中で、僕がハロについて語り尽くした感になって、学会後に虚脱感に襲われ、ヲタ続行不可能になるのではないかということ。


とりあえず僕は気合を入れて喪服で参加することにした。映画「キサラギ」をご覧の方は分かっていただけると思う。実際、まずこの会はダブルユーを偲ぶことから始まるのだ。℃-uteイベのあった福岡から朝のぞみに乗って東京に向かったため、11時30分に東京着、その後マン喫でレジュメをつくり、喪服に着替えていたら10分ほど遅刻してしまった。会場である東京都中小企業振興公社秋葉原庁舎の3階、第3会議室の外にはなんの恥じらいもなく「モーニング娘。学会」という紙が貼ってある。扉を開ける。ビクビクしながら、ドキドキしながら。


結論から言うと、僕は不思議なほどに熱意に溢れている。学会参加者の熱意がそうさせたのだ。およそ14時に始まった議論は21時まで、まともな食事休憩をとらずに続けられた。僕は喪服姿のまま、時に身を乗り出しながら、時に椅子にふんぞり返って発表を聞いた。発表があまりに面白いからそうなるのだが、僕の態度がだいぶでかく見えてしまったのではないかと思う。ただ僕は自分だけが喪服であるのをいいことに、多少学会のイニシアチブを取ろうとしたことも確かで、議論が横道にそれそうになったときには、もとの進行に戻すように意識したりもした。
語ることによって、語れなかったこと、語らなきゃいけないことがはっきりしてきた。全然こんなんで終わりじゃない。むしろはじめのはじめだよ、ということを感じた。本格的なアイドル論が待たれる。で、待ってるんじゃなくて、この界隈から生み出していこーぜ、っていう気分になった。内容に関してはhttp://d.hatena.ne.jp/musumelounge/20070816を参照のこと。


以下、各メンバーの印象を簡単に。


・つじたか氏
あんまり絡みませんでした。ハロ以外の知識も持っていそうで、もっと話をしたかったですね。


・いまむー氏
想像どおりの出で立ちでした。ハロー以外のアイドルの知識やら、フェミニズムやら、つついたらいろんなものが出てきそうだ。発表も気合が入っていてすごかった。いつも感心するのはちゃんと参考文献に依拠してしっかりとした文章、発表に仕上げる能力。そこで手を抜かない。今度どこか連れてってください。


・まっさん氏
本当は僕ももともと誘おうと思ってた人ではありました。Perfumeに関しての話、非常に面白かった。現実面と虚構面のバランス、記号性と身体性。テクノと未来主義。アイドルのあり方を考えるのにいいモチーフです。


・郁氏
もっとしゃべれこのやろう。雰囲気に押されてたわけでもなかろうに、寡黙を装っていましたが、そういうキャラじゃなかろう。しかしそんなことよりなにより、意外な接点が発見されたことのほうが気になってしまった。


・エレン氏
僕はエレンさんが怖い。人の発表中に全然関係ない話を始め出してしまう。僕が何より怖いのは、その気まぐれのような話が、でも結局のところ核心をついているのではないかということだ。これは僕にとって何よりおそろしい。論理的に話を進めたい僕は、でも、完全なる主観で話された文学の力に負けるんじゃないか。ということで、エレンさんはなっちなのだ。なんでもかんでも笑顔ですべてがまるく収まってしまうなっちのように、エレンさんには不思議な力があるのだ。(ちなみに腹痛で何度も席を立つのは映画「キサラギ」では塚地だ。)


・チャーリイ氏
2回会ってるから特に新しい印象はないが、やっぱりおかしいよなあ。常人じゃない。


・七里氏
朝まで生テレビでいうところの姜尚中みたいに、穏やか、まろやかな物腰から的確な論点を提示してくれる。明らかに彼が来てから雰囲気が引き締まった(それまで僕が崩してたんだけど)。フェミニズム・性と倫理・アイドル論の可能性についての問題提起が印象に残っている。

アイドルを守るための倫理

さて、私の発表内容。せっかくなので、当日の発表内容より濃くします。
前半は、http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070405の内容をほとんどとってます。

アイドルとは? 
基本認識:アイドルとはある人間でもあり、ある人間を超えた現象として、超越的存在(神)でもある。であるから、過度の人間扱いあるいは神としての崇拝はアイドルを滅ぼす。

ハローをめぐる、アイドルから見た、アイドルとして生きるときの倫理の問題
①アイドルになりたくてなったのかという問題
例)矢口・初期娘。
モーニング娘。の成り立ちが、ロックボーカリストオーディションであったことからも分かるように、そもそもモーニング娘。はアイドルではなくて歌手を目指す女の子を集めたものだ。彼女達はメディアと時代に操られるようにアイドルに仕立て上げられた。決してアイドルになりたくてなったわけではない。
自分で選んだ判断に対して責任を負うというのは理解できる話だ。しかし、アイドルという道を主体的に選んだわけでもない彼女(ここでは矢口を念頭に置くが)に対して、どこまで責任を問えるのかってのは、もうちっと繊細に語ってもいいんじゃないかと思う。もちろん何年もアイドルを職業としてやっている以上、もともとしたかったかどうかなんてことは問題にならないと考えることもできる。けれども、僕には彼女に対して時代錯誤的な「アイドルとしての倫理」を求めることこそ、非人道的で責められるべきことのような気がするんだよなあ。

 
②アイドルになりたいとして、どこまで覚悟できるのか
4期以降の娘。およびハロメンに関しては、大方「アイドルにあこがれてなりました」と言ってしまっていいと思う。のだが、メディアリテラシーもなにもあったもんじゃない普通の少女がアイドルの闇の部分を知るわけもなく。人一倍欲望が強い けれども何にも知らないいたいけな少女に、突然普通の人間でなくなる覚悟を求めることができるのか。
そういうある種のプロ意識なるものは、ある程度経験を積んだ後でなければ身につかない。しかし皮肉なことに、大体そんな風に覚悟ができたころには、アイドルとしての旬の時期は過ぎてしまっていることにもなる。アイドルの多くが、純粋さ、若さを売りにしている以上、覚悟やらしたたかさってのを同時に求めることはかなり厳しい。
アイドルには覚悟が必要だ。だけど覚悟ができて、慣れちゃったアイドルは「つまらない」。


③アイドルになりたいとして、それは手段か目的か。
「……ある日突然出会った男の子に一目惚れ。その男の子が超人気アイドルユニットのひとりと知ったきらりは、近くにいたい一心で、アイドルを目指すことに!!……」
アニメ「きらレボ」のストーリー紹介にこうあります。
少なからぬ女性アイドルが、こんなもんではないのだろうか。芸能界という華やかな世界にあこがれて、アイドルになる(「純粋にアイドルになりたい」ということはどのくらいありうるのか?)。手段としてのアイドル。例えば、今雑誌のグラビアを飾る水着姿のアイドルの多くは、その後グラビアを卒業して女優になることを夢見ているだろう。あるいは、当初の娘。のように、歌手になるための準備期間として捉えているアイドルもいるだろう。いずれにしても、アイドルを通過点として捉えるなら、アイドルでありつづけることの必要性はないし、未練もないだろう(果たして、松浦がもう一度「アイドル」であろうとするだろうか)。
そんなモチベーションのアイドルに対して、「アイドルの倫理」を求めるには無理がある気がする。まして華やかな世界にあこがれて入った芸能界だとしたら、禁欲的に振舞えなんて、無理無理。
ただ、逆に言えば、アイドルであることそのものを目的としているかのように見えるとき、アイドルは輝く(例えば今の℃-uteだ)。


④アイドルになりたかったとして、いつまでアイドルでいられるのか。
手段としてのアイドルではなくて、アイドルそのものにあこがれてアイドルになったとしても、いつまでアイドルでありつづけるかという問題がある。アイドルは貴重な経験であるとは言え、いつまでもアイドルでいたいと彼女たちが思うわけでもないだろうし、現実的にずっとアイドルでいられるわけでもない。
アイドルの輝きつづけられる期間は、普通三年くらいとかよく言われるが、それは消費者側の事情でもあるだろうし、あまりの精神的肉体的負荷にアイドルが耐えつづけれらないという事情もあるだろう。
そういう現実があるのなら、ある程度やり切った感が出た時点で卒業というシステムをとる娘。ってのは、人道的な措置がなされていると考えてもよい。僕はまだ松浦亜弥にもアイドルであることを強いたいのだが、楽曲によって松浦がアイドルを卒業したことを示し、支持層を変えていくというのは、松浦にとってはおそらくよいことに違いない。



アイドルは生きにくく、寿命は短い。娘。が10年目を迎えることは奇跡に近いということを認識すべき。
ちなみに、じゃあアイドルはどのように辞められるか


1.スキャンダル   辻加護・村上・藤本   (逆にこれが戦略的である可能性)
                       「こうすればやめられる」
2.歌手転身     松浦       才能あってこそ。
3.フェイドアウト  保田・飯田?   人気が低いことが条件

2006〜7にかけて、1が多発した。
10年目を迎え、アイドルの身体性をどう捉えていくかが問題
→ 新しいアイドル像を模索せよ。



新しいアイドル像
①低年齢化(・マイナー化)  
   例)℃-ute・AKB・おいも屋本舗
     +面:距離が近い・スキャンダルの可能性が低い
     −面:性的搾取・寿命が短い


試論:U15アイドルシステム:アイドルの年齢を大体12〜15の中学生あたりまでのおよそ三年間に限定する。期間を限定することで、精神的身体的負荷にも耐えうる。また、中学生という、恋愛においての禁欲性を保ちうる時期に限定することでスキャンダルを防ぐことも容易になる。一方、ヲタとしても、身体的成熟がされきっていない、「性的でない身体」を愛でた方が、より安定した閉じた世界にいられる。どうしても身体的成熟が進むにつれて、「水着写真集」とかいうエロの要素が割合を増し、際限のないエロ競争に巻き込まれてアイドルが失速するおそれが出てくる。アイドルの「少女性」を愛でても、「女性性」を排除することで、「萌え」の世界に安住できる、はず。もちろんこのシステムでは、ヲタには、15歳を過ぎるアイドルを喜んで送り出していく礼儀が必要になる。


②虚構化
   例)辻・小春・道重・嗣永・Perfume・アニメ
     +面:身体性からの解放
     −面:人間性の忘却


③本格化
   例)松浦・舞台への出演
     +面:長生き
     −面:アイドルとしての魅力はない


④エロ化 
   例)後藤・美勇伝?・水着写真集
     +面:本能に訴える・短期的には売れる可能性
     −面:短命・アイドルの権威を失墜



やはり①②がメイン。→身体性から逃れる方向性
成功例: ℃-ute → 低年齢(期間限定)          
     嗣永  → 自律性(奇跡的に自ら萌えをコントロール)≒中川翔子
     久住  → 現実と虚構のバランス、ディズニーランド方式(アイドルの負担を減らす分業体制)

☆アイドルを守るために、期間を限定するか、仕事量の負担(イメージの負荷)を減らすか。それによって新しいアイドル像がうまれてくるだろう。



↑レジュメはこんな感じで終わったんですが、議論は専ら嗣永のすごさに終始してしまった。確かにそこは重要だ。自ら萌えをプロデュースする。そうしたメタ的な視点を持った天才がアイドルになってくれたら、とは思う(涼宮ハルヒの憂鬱も萌えに自覚的だよね)。だけど、そんな天才はなかなか出てこないのだ。タイプは違えど、僕が奇跡と呼べる存在は、ハローでは辻・松浦・嗣永だけだ。それに依存しているだけでは、アイドル界は不毛の地になってしまう。では、低年齢の方へ持っていくか、虚構化へ進むか。それを考えるためには、U15アイドルやら、Perfumeやら、周辺事態を理解していくことも必要となろう。

単推しとDDはどちらが倫理的か?

これを問う可能性について僕はすっかり抜け落ちていたようだ。
僕のこれまでの考えはこうだ。単推しであるということは、アイドルを固有名詞として愛するということ。アイドルの権威を保ち、アイドルがアイドルでいつづけることを支える。一方DDは、いろんなアイドルを応援することで、アイドルの代替可能性を露わにしてしまう。アイドルの権威は弱まり、アイドルを短命に、結果としては滅ぼす方向になる。
…果たしてそうか?その見方は正しいか?


例えば学会でたしかいまむー氏が指摘したように、グラビアアイドルに関して言えば、マイナーで少数のヲタしかついていない時代に応援していたヲタは、そのアイドルが有名になったら、同じ事務所のデビューしたてのアイドルに乗り換える。マイナーであるときのみ応援して、大きくなったら乗り換える。これはハローにおいても見られることだ。娘。→ベリ→℃-ute→エッグ(真野)みたいな。
昨日映画「キサラギ」を見てきた。2回目だ。その中で気になった場面。なまじファンがいたから、頑張らなきゃいけなかった、ファンがいなければ引退できたのに、というようなセリフを小栗が言うところ。
ファンがいなければアイドルは存在できない、しかし逆に言えば、ファンがいる限り、アイドルはアイドルでいつづけなければならない。僕は、アイドルの期間を限定するか、負担を減らせと考えている。ということは、そうしたアイドルの負担減を実践しているのが他ならないDDのヲタ達ではないのか?それは一面では、一番輝いているときのみ応援して、飽きたらさっさと推しを変更してしまうせっそうのなさとして批判されるべきものかもしれないが、また一面として、アイドルを守り、アイドルが人間に戻るということを諦観をもって受け入れてあげる寛容さともいえるのではないか?
我々があるアイドルをずっと応援しつづけた場合、どこかで別れがやってくる。そのときに我々は駄々をこねるのか。置いてかないでくれと駄々をこねるのか(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070525/1180119642も参照のこと)。であるよりは、笑って送り出すか、あるいはそれよりも、そんな別れがやってくる前に、こちらから別れを告げる、それが最もよい作法ではないのか。


僕は悩む。アイドルを愛することができるのか。アイドルを愛するということはそのアイドルを固有名詞として捉え、代替不可能な存在として認めること。でもそれは、アイドルがアイドルであることから逃れられなくさせるという暴力でもあるのだろうか。
一方、アイドルを、アイドルという普通名詞として見ること。愛さない。アイドルを愛さない。交換可能なものとして、消費する。アイドルを商品として思うがままにする。それは一見紛れもない暴力なのだが、しかしアイドルとして消費しているのであって、「アイドルである誰々」に対しては向かわない。その割り切り方は、ある人間を「アイドル」に束縛しないという倫理性をも含むのではないか。
結局はバランスでしょ。でも、僕は愛したいのに。それは不可能か?…どうですか?