「パンチラ2015」に行ってきた

「パンチラ2015」という写真展に行ってまいりました。
http://pt2015.lewo.jp/in/
場所は浅草橋歩いてすぐの、Photons Art Gallery。
会期は2月15日まで。
さて、感想を。



まず、「パンチラ」を展示するということにおいて、直観的な反発のようなものを感じないわけでもない。
というか、もしパンチラ評論家なる者がいたら、大いに異議を申し立てるかもしれない。
「パンチラ」は、展示するものではない。「パンチラ」は、前もって用意されるものではない。
「パンチラ」は、偶発的な出会いにこそ、その本質があると。
別に自分がそう思っているということではないよー。
そういう可能性があるという、そう、可能性の話だよー。
そんなことを考えながら、会場に向かう。



取り立てて自ら探し求めなくても、
人は人生の中で何度かは確実に、「パンチラ」と出会っているのではないかと思う。
自分の最も最古のパンチラの記憶は、
小学4年頃に、体育の時間に同じクラスの女子生徒のブルマから少しパンツがはみ出していた件である。
しかしそれは取り立てて甘美な思い出でもなくて、何かとても気まずいものだった。
その後、駅のホーム、高校の教室、あるいは自転車の女子高生、という感じで、いくつかの記憶がある。
おそらく自分の人生におけるパンチラ遭遇回数はせいぜい5〜10回というところであろう。
それは不思議なことに、それによってひどく興奮するとかいう類の単純なものではなくて(なにしろ「パンチラ」というくらいなのだから、一瞬の出来事でしかない)、
後ろめたさのような気持ちと、普段見られないものが見えたという強い印象(これを「よい経験」と言ってよいかも判然としない)が残って、つまりとにかく記憶にはよく残るのである(映像が鮮明に残るというのでなく、遭遇したという事実の記憶が強く残る)。



それはさておき、展示を眺めていくと、いろいろなパンチラがあるということに気付く。
まずはじめに、当たり前のことを思い知るのだが、
パンチラは、圧倒的に後ろ向きであることが多い、ということである。
これはとても重要なことで、スタンダードなパンチラは、
「パンツを履いている当人は気付いていない」ということがあって、
それを見つけた他者との間に、非対称な関係が生まれている、という事態がある。
スカートがめくれる原因としては(そもそもパンチラはほとんどの場合スカートあってのパンチラである)、
風でめくれる、バッグなどがひっかかってめくれ上がっている、誰か他人がめくっている、
というのがあり、
めくれていなくても、階段の下からなど角度的に見えてしまうとか、座った姿勢により見えてしまうといったパターンもある。
いずれにしても、多くの場合、パンチラは、
ある主体が履いているパンツが、その主体のあずかり知らない形でチラッと見えており、その光景を他者が享受している、という構図になる。
だから、昔ながらのパンチラ評論家は、「いやその展示物は、主体が了解した上でのパンチラなんだから、「本当のパンチラ」ではないし、そもそも展示物は常に面前に晒されているのだから、その段階でパンチラじゃないじゃないか!」と怒り出すのである。(例えばの話だ。)



ところで、「パンチラ」の成立条件とは何かということで言えば、
個人的には、女性・スカート(的なもの)・パンツの三つであると考える。
なぜかというと、展示物の中の男性コスプレイヤーのパンチラ写真を見て、「これはパンチラではない」と言う心の声があったためだ。
そして、ジーパンがずり落ちてパンツが見える、的なものもどうも違和感がある。



話を戻して、「主体が了解しているかどうか問題」というのは、実はアイドルの世界でもよく言われる話で、
「アイドルは操り人形」のように言われる際には、アイドルには自由はなく、受動的な存在に思われるが、
特に現代のアイドルは、自らのイメージを巧みに操ってみせる、セルフプロデュース能力に長けたアイドルが人気を博している。
その点を考えるならば、パンチラだってセルフプロデュースしていいじゃないか、ということにもなる。



これは、超越性をどこに求めるかという問題でもあって、宗教観の問題ですらある。
一つの立場は、「パンチラは人為的に創られるものではなく、偶然的に、人の手によらずに生まれる奇跡であって、そこに神聖性がある」というものであり、
もう一つは、「よりよきパンチラを、人間の発想と技術によって生み出す。その結果生まれた芸術的な美に神聖性を認める」というものである。
前者を「トップダウン型パンチラ」、後者を「ボトムアップ型パンチラ」と名付けよう(たしかこれ、前にパフェでも同じこと言いましたよ)。
ボトムアップ型パンチラ」には大きく2種類あって、パンチラを見る側が自らの創意工夫においてパンツを発見していくプロセス(たとえば階段の下から覗くとかそういうことである)か、パンツを履く側が自らパンツを見せていくプロセス(これは日常的にはほぼありえない)。「パンチラ2015」は、この両者(パンツを履く人と見る人)の共同作業として、パンチラ写真を提供する、ということになっている。



パンチラ写真は、写真としてでき上がった以上、その写真を見る側には自由はあまり残されていないかに見える。一方で、普通は瞬間的にしか出会えないパンチラをじっくり見る(それはもうパンチラではないかもしれないが)という貴重な体験ができるばかりか、パンチラを見ていることをパンツを履いている主体からはとがめられない(視線が返ってくる心配がない)という利点がある(パンチラのモデルさんが在廊している場合、事態はもう少しややこしいし、こちらを向いているパンチラ写真も多いのだが)。
我々が最も自由にパンチラを享受できるのは、1階のナマダ嬢の大きな写真で、腰につけられたスカート生地をめくれば、自らの力でパンチラを獲得できるようになっている。これはとても面白い。記念撮影の場所として、ずいぶんと盛り上がっていた。



で、パンチラってなんだろうなー。よく分かりません。
もしかしたら、「本来見えないはずのものが見えることにおけるロマン」と同時に、「別にパンツが見えたところで、取り立てて何かあるわけではない(たとえ見られても、決定的なマイナスではない)」ということが重要なんではないか、と考える。
性器的な生々しさのない、記号的な性としてパンツが機能している、という側面は否めない。その主体の性的な側面を表しはするが、その主体の身体そのものではないパンツ。服と生身の身体の中間形態として存在するパンツ。生身の身体ではないがゆえに、それをめぐって(文字通り)不毛なおふざけができてしまう。それを都合よく言えば文化の豊穣さということになる。
しかしそんなことよりもまあ、パンチラ写真を見たら、なんか、胸がつーんとしますよ。


パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)

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▲全部読めてませんが、とても面白い本です。


「ぱんつ」大全

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▲6年前に買いました。