書評:『ももクロの美学』安西信一著

昨年末より、優れたアイドルを語る(ための)良書がいくつも出版されている。それはアイドル論に応用できるメディア論であったり、アイドル関係者やファンによるアイドル論であったりする。前者としては「イメージの進行形」「ディズニーの隣の風景」「ソーシャル化する音楽」、後者としては「IDOL DANCE!」「ジャニ研!」「アイドルのいる暮らし」など。
そんな中、いよいよ満を持してと言うのか、ももクロに関する本が出版された。今回ありがたいことに廣済堂出版様より献本をいただき、読ませていただいた。その感想、コメントをしていきたい。



Amazonでアイドル論の本のレビューがこれだけ高いというのも珍しい気がする。





この本を一言で言うなら、「ももクロを具体例とした現代アイドル論の良書」という表現がよいと思われる。どうしても好きなアイドルを対象として文章を書くと、主観的な好きの気持ちが、鼻につく誇張表現を生んでしまう。それは本書にもあって、著者はそれを自覚しながら、時にそれを隠そうとはしない。それをとりあえず脇に置くとすれば、いまのメディアをめぐる状況を踏まえた良質のアイドル論となっている。
だから、「ももクロだけがこうです」というのではなくて、「ももクロをめぐる現象に現代のメディア状況が特徴的に表れている」ということとしてこの本を読むのが正しいと私は思うし、筆者もそれは理解している。
「いや、それはAKBでもそうでしょう」、「いや実はそれはモーニング娘。の時からそうでしょう」、「いやそれより前の…」というツッコミはアイドル論ではしばしば入れたくなるものである。だれが起源だ、だれがオリジナルだ、だれが唯一のものだ、となれば、それは聖書のごときものとなってしまう。それはそれで意義はあるとしても、僕は開かれたアイドル論こそ読みたい。なるべく島宇宙同士を架橋してほしい、そんなアイドル論を求めたい。そういう意味で、十分期待に応えてくれる本だとは思う。
本書の中には、他のアイドルの名も出てくるし、アイドル論を語る上での参考文献もある程度幅広く登場し、過去のアイドル論を参照しながら論を進めていく。その点で、アイドルに親しんできた者にとっても十分に信用性のある本と言えるのではないかと思う。



以下、気になったところと、それに関する感想や思いついたことを列挙していきたい。
・「ヲタ芸」を「アイドルのライブにおけるファンの定型的で共同創作的な身体運動」としているが、ちょっと範囲が広すぎるのではないか。振りコピのようなものまで含まれてしまう気がするが、一般的にヲタ芸はアイドルの身体運動とは独立している。最近はステージ上でヲタ芸をするアイドルもいるけれど。(P32)
・身体の<繋げる力>の話は納得できる。青春ガールズムービーが、身体的なパフォーマンスにより感染力や説得力を示すこと、ゴールデンボンバーの人気、ライブアイドルの隆盛…、アイドルに限らず、身体の力が再認識されていることは現代の流れであろう。(1章)
・リアルな身体と二次元がハイブリッド化し高め合う現状については、アイドル現象全般、あるいはポップカルチャー全般に見られる。そこに成功しなければ、なかなか大きな人気を得ることはできないだろう。AKBもももクロも、「拡張現実」的アイドルとしてうまく自らのイメージを拡散していっているのだ。(1章)
・2章ではももクロの楽曲の転調の多さや、楽曲ジャンルのハイブリッド性、楽曲の断片的引用、そして自己言及について触れられ、革新的でありながら、どこか懐かしさも感じる歴史性を含んだ楽曲群について論じられる。現在は「新しいものは何も生まれないような閉塞状況」(p91)であり、あらゆるアイドルが既視感をもたらすという問題は興味深い。どんな曲でも、どんな衣装でも、何か元ネタ・引用元があるように思われてしまう。
そうしたオリジナルと引用・パロディの区別が失効した現在において、自分が今関心を抱いているのが「モノマネ」というジャンルである。今やモノマネは、引用元を必ずしも必要としなくなっている。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」等に代表されるように、引用元との比較によって楽しむのではなく、そのモノマネの演技自体を独立して楽しむということができてしまう。ここでは、モノマネがオリジナルになる。
あるいは、ある個人のマネではなく、こういう人っているよね、というあるある的なモノマネの存在(中川礼二の関西のおばちゃんのモノマネ等)。ここでは個人を離れ、ある「型」のようなものをすくい出している。実際にそうであるかよりも、いかにもありそうなことを消費する、そしてそれは我々のいままでの様々なメディア経験の蓄積によって共有されたイメージなのだ。いまさらながら、東浩紀の「データベース消費」という語を思い出す。
・「新しいものは何も生まれないような閉塞状況」を打破する戦略として、ももクロのとる(そしてももクロのみに固有ではない)戦略として3つ挙げられる。1つは「今ここにある身体というコピー不可能なものをそこに結びつけること」、2つは「既存のスタイルを積極的に混合しようという」「ハイブリッド化」、3つは「今ここを支える歴史を、重要な構成要素として振り返り、前面に出し、咀嚼し、発展的に継承することで前に進もうとする」こと。これは現代の文化状況全般に関して示唆に富む指摘と言えるだろう。特に筆者は3点目について、ももクロと昭和との連続性を強調する。この具体的な記述は、自分が最近ももクロを追っていないこともあり、知らないことばかりで新鮮で面白かった。
・2章終盤、「オタク化した島宇宙を統合」という表現には違和感がある。確かにももクロの表象はジャンル横断的にハイブリッド化しているのだろうが、だからといってももクロファンがそのコミュニティの外へと繋がれるとは思えない。それとも、ジャンル横断的であるももクロのファンのコミュニティは、島宇宙自体を拡張させることで、結果的に近接する島宇宙を統合していく、ということなのだろうか。しばしば思うことだが、たとえば「アイドルは世界を救う」と言う言説があったとして、実際には大抵そこで救われるのはファンコミュニティ内の成員だけである。
・3章、ももクロの「ノンセクシャル」なあり方についての部分は興味深い。逆に性的な魅力を押し出す場合、同性の支持を得づらくなる可能性がある点と、アイドルとしての寿命を短くしてしまうリスクがあると思われる。自分は「ノンセクシャル」と言えば地方アイドルの「りんご娘」を思い出してしまう。彼女らも、全く性的なものを感じさせない衣装のまま、10年以上も活動を続け、幅広い層の人々を楽しませている(ファンの総数は全く比べられないけれども。あと、最近2人になってちょっとイメージづけが変わってきたのかな)。
・3章終盤、「ももクロにあっては、アイドルであることへの自己言及やその演技は、対自性を欠き、結局、即自的にアイドル<である>ことと同じになってしまう」。最近自分が過去に考えてきたアイドル論の見直しを図らなくてはならないと思っているのが、この点についてである。あるアイドルである一人の人間の実存を守るために、アイドルであるレイヤーと、一個人としてのレイヤーを峻別するべきだと以前自分は考えていた。しかしいまやアイドルは割と自然にアイドルとしての振舞いができてしまう。アイドル批評誌『アイドル領域Vol.4』でメイヤン氏が論じたように、Ustreamダダ漏れ的にステージ外の様子を流されることに慣れた東京女子流のメンバーのように、アイドルにとって「アイドルであること」が高いハードルでなくなっている現状があるだろう。もちろん不用意な振舞いをしてしまうアイドルも数多いという問題も同時に発生しているが、自分が思っていたより、いま「アイドルであること」をめぐる実存的な問題は大きくないという気がしている。(この問題については『IDOL DANCE!!!』(ポット出版)のP148〜151、ぱすぽ☆メンバーに関するキャラの話が面白い。)
・上記の点に関しては、「震災・日常・境界 〜地方アイドルイベントから考えたこと〜」http://d.hatena.ne.jp/onoya/20130311 で自分も論じた。アイドルが非日常から降りてくる超越的存在ではなく、日常の風景の中に非日常(とまでも言えないような「特異点」)をもたらす存在になる。特に地方アイドルは、地元密着ということでも分かるように、何か遠い存在という表象のされ方が初めからない。ファンからすれば、地元の学校に普通に通っている中学生が、(まるで部活でもするかのように)アイドル活動をするということ。こんなことが当たり前になった現代に合わせて、当然アイドル論もアップデートされなければならない。
・4章、それにしても、最近のアイドル論はそろいもそろってみんな宗教性を語り出している気がする(もちろんその理由は自分も強く理解しているつもりだ)。それはさておき。ももクロの宗教めいたオーラの正体を、筆者は丸山眞男の言う「つぎつぎになりゆくいきほひ」という語で説明している。「つぎつぎに=ファンタジー」、「なりゆく=無窮の成長過程」、「いきほひ=生命エネルギー」がももクロのオーラの正体であると(そして一方でこれはももクロの多様な魅力の一部に過ぎないと筆者はくぎを刺している)。また、その後「ももクロは必然である」と論じていくのだが、筆者も自覚しているであろうが、以上のことは少なくともファンが好きなアイドルに対して抱く共通の想いであって、ももクロに固有のことではない。これはアイドル論の難点でもあり、重要なポイントでもあるので繰り返し述べておきたいのだが、あるアイドルの固有性をいかに論じてみたところで、それを元から信じている内部のファンにしか届かない(あるいはその語りの熱量によって読み手をファンにすることはできるかもしれないが)。一方その語りを抽象化して読めば、多くのアイドルファン(あるいは多くの多ジャンルのファン)が共感を覚えることができる。
・筆者は結局、「おわりに」にて、「ももクロは素晴らしいから素晴らしい」という同語反復に尽きる、と書いてしまう(濱野智史氏も『前田敦子はキリストを超えた』の終盤にて、「論じるよりも、することだ」と書いている)。これは誠実な態度と言える。アイドル論で一番避けたいと自分が考えること(そしてこれはアイドル論者に共有されるとよいと考えていること)は、1.主観を客観的事実に偽装しないこと、2.推しているアイドルを、他のアイドルを貶めることで相対的に引き上げるということをしないこと、の2点だ。ともかく、もっともらしく理由をつけて他のアイドルを貶め、好きなアイドルを客観的に素晴らしいとする言説にはよくよく注意しなければならない。(ただし、アイドル論をすべて、「結局、好きなものは好きだ」に帰着させるのがよいとは思わない。むしろ自分のアイドル論は、主観をなるべく排除したところで、アイドル諸現象に共通する部分をすくい出そうと意図している。)



・いろいろ書きましたが、ここでコメントした内容以外にも、現代のアイドル(あるいはひろくポップカルチャー)を語るにあたって重要なテーマを扱った良書であり、アイドルファンに強くお勧めできる一冊です。宣伝になりますが、自分の編集したアイドル批評誌『アイドル領域Vol.3』(特集:自己言及)、『アイドル領域Vol.4』(特集:ユビキタス アイドル)では共通するテーマを扱っているので、ぜひあわせてお読みいただくことをお勧めします。




アイドル領域Vol.3

アイドル領域Vol.3

特集「自己言及」。

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

特集「ユビキタス アイドル」。ももクロのことも「アイドルらしさ」をめぐる論考の中で取り上げられています。

斧屋のアイドル-宗教論

斧屋のアイドル-宗教論

アイドルファンの宗教性とか、アイドルを信じることについての論考集。