AKB「じゃんけん大会」についての物思い

AKB48の武道館じゃんけん大会から1週間が経った。レポについては前回のエントリを参照いただくとして、今回はこのイベントで感じたことを少し考察として深めていきたい(前回のエントリを未読の方は読まれてからの方が分かりやすいかと思います)。それから、ぼくは「じゃんけん大会」までに至るAKB48の文脈をほとんど知識として有していないため、その点において決定的に問題のある記述をする可能性があることをお断りしておきます。


●わかりやすさ●
じゃんけん大会を見る中で一番感じたことは何かと言うと、徹底して「わかりやすい」イベントだ、ということだ。
司会進行役のジョン・カビラ、そして格闘技選手の呼び込みのようなアナウンス、アントニオ猪木の登場から「1、2、3、ダーッ!」まで、徹底して一般層にもわかりやすいつくり。要は、通常のメディア経験をしている若者であれば誰でも有しているような文脈さえ知っていれば、このイベントは楽しめますよ、というつくりがなされていた。
そして、じゃんけんというわかりやすさ。ルールが誰にでもわかっていて、一目で勝敗が分かり、その勝敗に関して不正の余地や議論の余地がないように思われること。頭上のスクリーンによってじゃんけんのリプレイが流れれば、誰にでも一瞬で勝敗がわかる。
このようなわかりやすさ――文脈依存性の低さと言ってもよい――が一万人単位で集客をするイベントでは必要なのではないかと思う。特にアイドルは理解するための文脈が必要とされることの多い存在なのだから。
ちなみに、AKBの現場で大々的に行われるMIXは、それを行うということに関しては文脈性が高いことだが、それを見ているものにとっては決して理解できないものとか、その場にそぐわないものではない。事実、終演後に一般客と思われる若い女性の会話では、「あれなんて言ってるんだろーね」「わかんない、…でも盛り上がるよね」という声が聞かれた。MIXは覚えてしまえば多くの楽曲において使い回しが利くという行為者としての利便性とともに、その場を簡単に盛り上げることができる、ある種の舞台装置の一種として、一般客に対してもそれなりの好ましい印象を与えうるように思う。(2003年頃のヲタ芸全盛時には、「POP JAM」等の一般の観覧客が多い歌番組観覧におけるヲタ芸が同様の機能を果たしていたように思う。目新しさという点で、当時のヲタ芸は迷惑というよりは、変な行為だがすごく盛り上がるという側面が評価されることもあった。ただMIXがヲタ芸よりも優れているのは、「声」というものが会場全体に波及するという効果を持っていることだ。たとえ少人数でも、MIXは会場の空気を作っていくことができる。…もちろんこれは一方ではMIXが場の秩序を崩壊させる契機にもなりうることを意味するが。)
というわけで、誰にでもわかりやすく楽しめるイベントを意図しているということが伝わるイベントであった。


(近いうちに、文脈依存性とファンの規模についてのエントリを書く予定。)



●ガチの演出●
ぼくは、「ガチ」であることがAKBの思想であると感じている。「ガチ」というのは真剣勝負ということであり、「ほんとうの」「現実の」ことを意味し、あるはっきりとした基準の下において平等であることだ。
たとえば選抜総選挙は、ファンの投票数(=人気)という明確な基準に基づいて行われた。過去にも指摘しているが、あくまでこの「ガチ」は演出であって、多くの人間に平等だと思われればよいという類のものである。こうした人気投票的なものの「平等でなさ」はおそらくいろいろなところで語られているだろう(たとえば金がある人間が多くの票数を持っていることなど)。もっと話を広げるなら、それなりの正当性があるように思われる「世論調査」でさえ、メディア論の中では疑問に付されている。
さて、今回のじゃんけんは、おそらくこれ以上無い「平等性」をもったイベントであろうと思う。抽選というような目に見えない余地の残る方法でなく、大勢の目の前で、わかりやすく勝負がつくじゃんけんという方法は、人気投票よりもさらに不正の入る余地の無いものとしてファンには映るだろう。それでも自分は、不正の入る余地はあるだろうと思っているが(別にこれは不正があっただろうと言いたいのではない)、投票よりは断然に「平等性」の演出の手段として優れていると思う。
じゃんけんにはレフリー山里がつき、さらに4人のジャッジが四方から旗判定をするという、この勝負事への権威付けと平等性の演出がなされる。また、ルール説明がされ、チョキの形や、後出しに関してビデオ判定を行うことなどもアナウンスされる。
ところで、興味深いのは、重要なのはやはり「ガチ」の演出であって、そのことによって捨てるものがあるということだ。「じゃんけんで選抜メンバーを決める」、たしかに平等である。が、当然そこでは、能力・実力に基づいた評価や、人気に基づいた評価という意味での平等性は全く無い。その意味で、AKBはスキルとして優れたパフォーマンスを指向するグループではないということを明らかにしている。選抜総選挙はファンの人気投票ということで、ファンの声を大事にするという言い方ができるが、じゃんけんの場合はそうした基準がない。ただ「運」のみである。メンバーが運によって容易に代替可能であるということをあからさまに宣言している。それぞれ個々のメンバーが、代替不可能なスキル、身体、その他諸々の要素を有していないということになってしまう。要はAKBはガチの演出というエンターテインメントを提供するグループであるという表明をしているように思われるのだ。そのことを決してぼくは否定的に捉えるつもりはない。「実力」というような不透明なものよりか、わかりやすいエンターテインメントの方が集客ができる。モーニング娘。の全盛期もそうだっただろう。(ところで、「ガチ」はヤンキー文化との親和性を感じさせるが、そうすると「オタク文化」よりは「ヤンキー文化」の方が普遍性が高いと考えてよいのだろうか?最近「ヤンキー研究」に注目が集まるのもそのためだろうか?)
もう一つ、「ガチ」の演出によって捨てるものは、夢やら虚構やらである。このじゃんけん大会、ファンにとっては、自分の好きなメンバーが選抜から落ちるという厳然たる現実を突きつけられるイベントである(センターになれる確率は1/51だし、選抜メンバーになれる確率も31.37%しかない)。素朴な疑問として、それがファンに許容できるのだろうか?山里が大会前に「どんな結果が出てもどうかどうか暖かい拍手をお願いします」とは言ったものの、実際にバタバタと敗れていく人気メンバーを目にして、ファンの胸中はどんなものだったのだろうか。特に気になるのは、中高生はこのイベントをどうとらえているのか、ということだ。こんなに思い通りにいかないことを見て、失望しないのだろうか。それとも、メンバーたちは中高生たち自身の現実よりも過酷な現実に直面することで、彼ら中高生の溜飲を下げるのだろうか。現実ってこんなものだよね、とシニカルな視線を持った中高生たちなのだろうか。(…いやたぶん、もっと簡単にイベントを楽しめるのだろう。)



●不確定性●
「…大丈夫、勝てる気がする。」
いよいよじゃんけん大会が始まろうとする頃、あるファンが発した言葉だ。
じゃんけんは、予想できるものではない。それでも、予想してしまう。それが選抜メンバーを決める重要な勝負であればなおさらだ。流言の公式「流言量=問題の重要性×状況の曖昧さ」を思わせるが、重要であるが不確定的であることほど、様々な言説を生む。選抜メンバーを選ぶ重要な勝負の行方が全くわからないという心理不安をファンに与えることで関心を煽り、言説量を生み出し、アイドル現象を拡大させる。非常に、うまいやり方である。
応援とは本来そういうものではないか、とも思える。勝負の行方がわからなくて、それでも誰かの勝ちを望む時、自分にできることが何もできないとしても、それでも祈ったり、声を出すことで、勝負に何らかの影響を与えられるのではないか、あるいはそうでなくても、もう声を出さずにはいられない、そんな心の動き。だから、ファンは一生懸命「じゃーんけーん!」の掛け声を出した。
そういう意味では、「じゃんけん大会」という企画はファン心理を強くするいい仕掛けであったようにも思う。総選挙→じゃんけん大会と来て、はたしてこの後どうなるのだろうか、と考えたが、普通にもう一度総選挙でも問題はないのではないか、と思う。「じゃんけん」という、ファンが祈ることしかできないイベントをやった後で、総選挙という、ファンの力によってなんとかできるイベントがきたら、みんな頑張っちゃうのではないか。そんなこともふと考えた。




以上、言いたいことはやはりうまいイベントだなということ。一般層にも開かれ、そしてファンにはファンの楽しみ方があり、それらが決して齟齬を起こすことのないイベント。長丁場で多少だれた感もあるが、2000円とか3000円のチケ代なら満足のいくイベントと言えよう。中高生が出せる金額で、これだけのイベントをやったら、彼らはやはりAKBを支持するだろう。
イベント終盤に高橋みなみ大島優子が言ったセリフが気になっている。高橋は内田の優勝に対し、選抜になりたいという強い気持ちでこういう結果になったと言い、大島は熱くなれることはすばらしい的なことを言う。ライブ終わりにも、全てを楽しむことが大事、とか、こういうの(じゃんけん大会)を本気でやるAKBってすごいな、とか。制服的な衣装で、学校感を醸し出しているように(少なくとも自分には)思えるAKBの発するこうした言説が、中高生に効果的なイデオロギーとして機能していくのかな、と思った。いい悪いは措いておいて、こうしたイベントの持つ力の作用というものを思う。