ファッショナブルなアイドル

モーニング娘。の舞台、ファッショナブルを観劇。ル・テアトル銀座。


アイドルそのものを見る舞台としては、面白くはなかった。ここで言っていることは、アイドルそれぞれのキャラクターに沿った役柄を演じさせることで、アイドルそのものの魅力の発露となるような舞台のことだ。
確かに、多くの役柄はメンバーそれぞれに合ったものとして割り当てられていたように思うが(道重に象徴されるように)、しかし一方でこの舞台は完全に高橋愛の独壇場であった。別にそれが悪いということではない。ただそれによってこの舞台は、アイドルグループが演じる意味を希薄にしていたということはあるかもしれない。
高橋愛を、上記のような「アイドルそのものを見る舞台」の中でベタに使うなら、例えば(ちょっと古いかもしれないが)地方から出てきた訛りの抜けない田舎者として使ってもいいわけだが、それが舞台での高橋のベストな使い方とも思わない。高橋愛の圧倒的な歌唱力と舞台女優としての能力を使わない手はないと思う。しかしその場合、完全に他のメンバーが置いていかれる。それに対抗するには道重のように徹底的にデフォルメしたキャラクターで立ち向かうしかない。
ここでは「リボンの騎士」と、「リボンの騎士」以前の娘。ミュージカル(典型的には各メンバーのソロも組み込まれた「LOVEセンチュリー」あたり)という二つの舞台の作り方の違いを問題にしている。舞台として魅せるか、アイドルそのものを見せるかという違いだ。そしてぼくは後者が好きだ。だからその意味では、今回の舞台は面白くない。


しかし、舞台をアイドル現象の比喩として読んでいくと、それもまたひとつの面白さがある。それは典型的な舞台の見方からすれば誤読のように思われるかもしれないが、ヲタとして感情移入がしやすいという意味で、舞台をより楽しむための工夫である。もちろん物語全体を一貫してアイドル現象の比喩として読み込んでいくことには無理が出たりもするのだが、ひとつひとつの設定やセリフをアイドルとしての立場・セリフとして読むことは面白い。
例えば、舞台では高橋愛がチーフを務めるアパレルショップは、安い商品の多い大型店舗に押されて客足が遠のき、このままではつぶれるという危機にあるのだが、これに関して「モーニング娘。」VS「AKB48」という構図を描くことは容易だろう。「客に対して上から目線ではいけない」とか、「君たちに必要なのは変化だ」とか、今の状況は「目の前の問題から目をそらし続けた結果だ」とか「表面だけの仲良しグループではダメ」とか。いやまあ、自分は最近のモーニング娘。のことはよく知らないけれども、いかにもハロプロを象徴するようなセリフの数々が心にしみる(というかそういう読みそのものを楽しむ)。
また、中島早貴の出演シーンのところで、久しぶりに会う父親と会うときに、一緒に住んでいた小さい頃の格好をするべきか、成長した姿を見せるべきか、という選択を求められる場面がある。これも、離れていったヲタに対して、等身大のアイドル像を提示すべきか、それとも幼いロリ的なアイドル像を提示すべきかの選択と読み込むこともできる。
終盤の主題が表れる場面では、「私の仕事は、みなさんを輝かせる、たった一つの宝物を探すお手伝いをすること」「消耗品ではなく、お客様にとっての宝を探す」という示唆的なセリフもある。これがアイドルの役割であると。たった一つの、消耗品ではない宝としてアイドルがあること、ありたいこと。
「ファッショナブル」というタイトルさえ、アイドルとして流行っているかどうかの問題として考えると興味深い。残念ながら流行ではなくなったモーニング娘。が、あえて「ファッショナブル」という舞台をすることの意味。果たしてモーニング娘。は、もう一度流行ることができるのだろうか。それとも、つぶれる運命なのか。
ところで、舞台の中で、服はちょっとした工夫で全く印象を変えたものになるということ、そうした発見もまた、ファッションの大きな魅力であることが描かれる。その見せ方の一つが、ピンによって服の丈を変えてみせること(ピンワーク)なのだが、道重さゆみ演じるかわいいタレントの女の子は、高橋のお店で試着した際、そのピンワークによってお気に入りの服を発見するのだ。もう見慣れたもの、取り立てて目を引かなかったものでも、ピンワーク(ピンのお仕事)によって引き立ち、アイドルとして「ファッショナブル」なものになるということ。まさにモーニング娘。の中で道重がピンで放つ強い存在感が、舞台の中でも描かれているのだ。そうして見ると、道重だけが有名人役として出てきて、他の娘。メンバーは、まだ宝を探そうとする店員でしかないということも暗示的ではあるように思える。とはいえ、彼女たちにも可能性はまだまだ残されているのではないかと思う。


こうした読みは全て戯れに過ぎない。過ぎないけれども、そうして読みを働かせながら観劇するのは楽しい。アイドルは役者と違って、その存在そのものへの視線を常に惹起する。逆に言えば、今日の舞台で辰巳琢郎が演じた男性のことを、辰巳琢郎そのものと重ね合わせて見る可能性はあまりなさそうである。そういう意味で、アイドルの舞台は、ただ役者が演じる舞台とは異なる、特有の意味合いを帯びることがあるように思う。舞台をアイドル(現象)の比喩として読む可能性を視野に入れることで、アイドルの出演する舞台は深みを帯びてくるのだ。
ところで、一応なっきぃのことも目当てに行ったのだが、見せ場はほぼなし。舞台終演後のMCで、必死で冷え性キャラを強調していたことくらいでした。