ハロプロは総選挙をしない。

AKB48の総選挙結果が出たらしい。「第2回選抜総選挙」本投票イベント『母さんに誓って、ガチです』があったもよう。
ところで、一体どうして自分はAKBに関心がもてないのかと思う。端的に言って、「ガチ」という言葉のうそ臭さなのだが、まあ待て、もう少し落ち着いていこう。
初期モーニング娘。とAKBは似ている。「ガチ」という点において似ている。初期娘。の「5万枚手売りでデビュー」、「センター争い」、「増員&卒業」。AKBの総選挙。ふむ。
あー、システムとして、しまった、負けたな、と思うところはある。
モーニング娘。は、アイドルとしての生死をかけて「ガチ」を演出してしまった。それの成れの果てが、増員卒業でしか話題づくりができない、というような評価さえ呼び起こしてしまった。しかも、卒業するメンバーは多くが人気のあるメンバーだった。卒業すればするほど、人気がシュリンクしていく恐れがある。
AKBの総選挙というシステムは、ああ、うまいと思う。メンバーがやめなくても、ガチの演出ができる。そしてまた、リベンジの機会もある。
うむしかしじゃあ、ハロプロでも総選挙やりますか?いや、そうじゃねえだろ、という確信。先日のエントリでも書いたが、総選挙をやるということは、全員がNo.1を目指さなくてはならないということだ。ハロプロは、うーむ、No.1じゃない、ありえないメンバーがいる、いてほしい、と思う。保田圭前田有紀平野智美…そう、こういうメンバーはAKBにはいないだろう、そうだろうそうだろう。
ん、あれおい、いかにアイドルの中心軸から外れた存在がいるかで、アイドル集団を評価しようとしているのって、なんかおかしくないか、自分よ。…とはいえ、アイドル現象の中に、ある程度の多様性はあってほしいと思う。…じゃあAKBに多様性はないのか、そんなはずはあるまい。…ハロプロの特殊性って何?
ところで、外部から見た時のアイドル現象は常に愚かしさを含んでいる。それは、酔っ払いを、酔っ払ってない自分が見るときの気分と同じだ。やむをえない。
AKBの選挙はガチだという。自分から見れば、そんな「ガチ」など偽装されたものに過ぎない。でもそれを相対化する視点は、ファンにはないように思える。あんなもの、いくらでも結果の操作なんてできるじゃないか、という語られ方は、語られ方の中心にはないように思える。それが、うまい。選挙の後も、物語は続いている。こちらの側は、死人についてぐだぐだ語らされている。外反母趾とか嘘だろ、とか。
いかにファンにアイドルの手綱を握っているように思わせるか。手綱を握っているように思わせて、財布の紐を握られているかもしれない。そんなことはファンも承知の上。
ハロプロのほうは選挙じゃなくて、メンバーの順位付けじゃなくて、楽曲のアンケートをとることによって「手綱握った感」の演出をしている、のか。あるいはまた、UST、ついったーイベ等によって、何も介さないファン―アイドルの関係を演出しようとする。
しかし、なんだな、こんな風に「民意」に任せるのがいいのかということに、大きな疑問もある。「民意」を偽装することへの危惧もあるが、百歩譲って「民意」があるとしても、それの通りにすることが、アイドル現象にとって「よい」かどうかわからない。何が「よい」のかもわからない。
だめだ、眠くなってきた。
ハロプロは総選挙をしない。それはぼくには好ましい。そこではトップダウン式にアイドルというものを受け入れていく諦念のようなものが必要なのかもしれないし、「ハロマゲドン」などを経験した身にとってはどうしてもそこで事務所との対立が避けられない気もする。しかしそれでも、自分がどうにもならないものとしてのアイドルの聖性を信じたい。選挙によってアイドルをコントロールできる余地があることへの違和が消えない。これは大仰に言えば思想的立場の違いだろうか。
…ねよう。