愛理生誕祭

前日同様、夜公演のみ。
愛理生誕祭で、サイリウム企画があることを知らなかった。
3列目で見たが、前の方に妙に緑Tが多いことを不思議に思うも、あーそりゃそうだ、と思い直す。
会場が緑サイリウムで埋め尽くされる光景は、もはや全く驚きのない予定調和的なものであったとしても、それは十分に感動的なものだ。以前から再三サイリウム祭に関しては考えてきたけれども、これはもはや安定感のある文化になったな、という印象だ。別にすべての観客に強い強制力を持つものではないし、参加しようと思えば簡単に参加することができ、特に不純なものを含まない形で、アイドルとファンが心を通わせることができるイベントとして完成されている。終了後はイベント主催者が使用済みサイリウムの回収をしていて、事後処理もしっかりとできていて問題はない。すでに新鮮さは失われたサイリウム企画だが、その分文化としての認知度が増し、洗練されたものになっている。
2階席には、サイリウムで作られた「HAPPY BIRTHDAY」の文字が現れた。2階席の観客が、ひとり一文字分ずつ手に持って現れたメッセージは、もしかして他の現場では定番なのかもしれないけれど、僕は初めて見て、新鮮だった。ただ、これは2階席の該当席にいるヲタにとっては強制的なものであろう。おそらく、このタイミングで掲げてください、という依頼があるのではないかと思う。もちろん、基本的に趣旨を理解しやすく、特にやることに困難のないこうしたイベントでは、みんな快く承諾をするのだと思う。だが改めて思うのは、文化やらイベントやらというものは、なんらかの枠組みを持つもので、濃淡はあれ人になんらかの強制力を発揮してしまうものだということだ。だからこうしたイベントはよくよく皆が納得できるラインで企画されなければならないのだなあ、難しいなあということだ。
今回の愛理生誕祭は、そういう点においても大成功だったと思う。現場におけるこうしたダイナミズムは、やはり現場にいなければ体感することができない。面白い。
ところで、こうしたヲタの運動に関したは、ライブ主催者側も心得たもので、例えばアンコール中にはステージ上のスクリーンに、2階席の「HAPPY BIRTHDAY」を映し出したり、ヲタが掲げる愛理に向けたメッセージボードを映し出したりして、祭を盛り上げることに一役買っていた。ライブ中のスケッチブック・ボードは禁止という扱いにしながらも、こうしたタイミングでのボード使用に関しては認めていくという空気を読んだ寛容性は、皆でライブをよいものにしていこうという℃-uteへの愛情が感じられて、その場をとても居心地のよい環境にしていた。夢を売るとか、愛情とか、そういう曖昧で妖しいものを扱う場においては、そういう環境作りこそがとても重要であると思える。
アイドルという触れられないものにどうやって触れるのか。例えばそれはライブ中での風船飛ばしや、ゴムボールを客席に向かってメンバーが蹴り入れる、ということにおいても試されていたテーマであるように思える。僕らは触れられないものに、触れられないながらも触れたい。それをどうやって、断絶せずに架橋していくかの試み。メンバーが触れたものが客席のファンに渡る。アイドルの痕跡に触れるということは、アイドルに触れないながらも触れるという、不可能性と可能性の間にある不可思議な何かだ。おそらくサインというものにもあるであろうそうした聖性を僕は改めて目の当たりにしたような気がする。



なっきぃについて。
「愛してる 愛してる」におけるなっきぃのメランコリックな、憂いを帯びた表情はとてつもない。
ライブ終盤で足がつったということで一度はけて、もものあたりにテーピングをして戻ってきたなっきぃだが、特に気にする素振りもなく頑張っていたように思う。僕はその変わらぬ笑顔に、心配するまでもなくよりかかってしまった。
ライブの最後に、なっきぃは僕を見た。絶対多分。…それが一体なんだと言うのか。よく分からない。それはうれしいというような言葉でなんとかなるようなものじゃなくて、なんというか、僕が生きていることの証明、みたいなことが瞬間的に体感されるような経験なのだ。