℃-uteコンサートツアー2009春〜AB℃〜 松戸森のホール

松戸は遠い。
でもって、久しぶりの現場なもんだから、あんまり高まらない。
…でもなっきぃのうちわを見たら、ぺにゃりとなってしまう。
なっきぃは口を開けていなければならない。
なっきぃはしゃべるときに手の動きが激しい。
なっきぃなっきぃなんだなあ。


なんでライブに来るんだっけ、といつも思いながら、論理でうにゅうにゅ考えながら、でも途中からはライブに没入していく。舞美があんなにステージ左右に動き回るから、こっちも頑張る。なっきぃがあんなに歯茎を出すから、自分も。ライブは確かに言語を超えて分からせるものだ。


一方で、言語的な側面としての歌詞がぼくは気になる。ぼくはつんくの歌詞におけるいくつかの特徴を興味深く思う。
アイドル歌謡に不釣合いに、政治経済系の用語を使う。
「One's LIFE」の歌詞、「恋破れ 泣き崩れ 落ち込むあの子って 何とかして 民事法で 再生してあげちゃって」はとてもつんく的。℃-uteで言えば「わっきゃない(Z)」の「相乗効果でライバルいっぱい ストップ高」、昔の娘。であれば「LOVEマシーン」の「どんなに不景気だって恋はインフレーション」。
違和感、そして多少の滑稽感を出す。これは意図的にやっていると思う。


②なぜか環境問題にうるさい
「Yes! all my family」の歌詞。「人工が増え続くこの地球に なんとか今日雨が降った」「魚が減り続くこの地球に また今日陽が昇る」。
温暖化イベントがらみで娘。の「浪漫〜MY DEAR BOY〜」などがあるが、アイドル歌謡にはこうした過剰なメッセージ性を含むものがある。それはほとんど伝わることを前提としていないのではないかと思え、その点でやはり違和感を覚える。(この点では、ぼくが以前買った「制服向上委員会」のアルバム「世界・自由・アメリカ」が一番すごかった。)


いずれにしても、ややもすると歌詞が軽視されるか、またはほとんど無視されがちなアイドル歌謡において、歌詞を冒険する試みというのは興味深い。それはその歌詞の意味内容を伝えるためというよりは、アイドルを引き立てるために、過剰にメッセージ性を盛り込むことによってむしろ、歌詞を無意味化する試みではないかとまで思える。




ライブのクライマックスはやっぱり「まっさら」であり、「JUMP」なのだな。これは偉大なるマンネリ。元気だから体を動かすんではなくて、体を否応なく動かされることにより元気にさせられるという、そんな強制的な快さがライブにはある。



…さて、今日も夜だけ参戦。
書く予定:ヲタはヲタTをなぜ着るのか