映画『ラースと、その彼女』

…仕事前に急いで書いてるので、後で加筆・修正するかもしれません。

2回目。壮大にネタバレしていきます。
この映画、やはり素晴らしいので、ぜひいろんな人が見てほしいと思う。渋谷シネクイントで2月6日までやっているみたいです。



あらすじ:アメリカ中西部の小さな町に暮らすラースは、優しくて純粋な青年で町の人気者だが、ずっと彼女がいないために兄のガス、義姉カリンらは心配していた。そんなある日、ラースが「彼女を紹介する」と兄夫婦のもとにやってくる。しかしラースが連れてきたのは、ビアンカと名づけられた等身大のリアルドールだった。兄夫婦を始め、街の人たちは驚きながらも、ラースを傷つけないようにビアンカを受け入れようとするが…。(goo映画より)



ラースは優しい青年だ。妊娠中の義姉を気遣ったり、教会で子供をあやそうとしたり、老人の荷物を持ってあげたりする。しかし自分の内面に入ってくる存在を認めることが出来ない。兄夫婦の家が隣にあるのに、義姉の再三の食事への招待を拒絶してしまう。仕方なく夕食に同席しても大して食べずに残してしまう。会社に入ってきた新人のマーゴに対しても、気になってはいても、そっけなく接してしまう。
兄夫婦は、いつまでも彼女ができなくて、一人で過ごすラースを心配する。逆に自分たちだけ幸せでいていいのだろうか、という自責の念にも駆られている。ラースは27歳。
会社にフィギュアを集めているオタク的な同僚がいて、ある日、彼はラースにリアルドールラブドール・ダッチワイフ)が広告されているサイトを教える。
しばらくして、ラースの家にリアルドールが届く。リアルドールが届くと、そわそわしてそれをちらちら見てしまったり、やたらと外見を気にし、髪をセットしたりするラース。兄夫婦に彼女を紹介している時のラースのうれしそうな表情は、ヲタが推しについて語る時の気持ち悪くも率直な表情のようである。
「彼女は遠くから来た、ネットで知り合って、英語があまり話せない、車イスで、信仰心が篤い人なので、若い二人が二人きりでいるのはよくないと言っている…」そんな風に彼女を紹介するラース。
さて、いざ彼女(リアルドールビアンカ)と対面して、兄夫婦は目が点になるわけで、これがこの映画で最も笑いを誘うシーンではある。そういう意味ではこの映画のクライマックスが冒頭にあるとも言えるが、映画が面白くなるのはここからだ。
ビアンカの紹介が終わり、(兄夫婦は混乱し狼狽しているものの)夕食が始まる。ここで、人形であるビアンカの前にも食事が並べられるが、ラースはビアンカの分にまで手を伸ばし、平気な顔で食べてしまうのだ。ここでなぜ、彼がビアンカの口の中へ食べ物を入れる真似事さえしないのか、ということは重要だ。例えば昨年ドラマ化された「スミレ16歳!」では、人形であるスミレの口に豪快にお弁当を掻き込むオヤジがいた。人形を仮にも人間扱いするならば、人形にも食事をさせるのが筋である。そうではなくて、人形に食事をさせず、人形の分まで食事をすることは、つまり人形であるビアンカとラースが未分化であって、人形がラース自身でもあるということを示している。後に明らかになるが、ビアンカの「設定」は、母が彼女を産んだ時に死んでしまったことによって、子供を産めなくなってしまった女性ということになっている。これはラース自身が母を自分のお産により亡くしていることをなぞっているものと思われる。ビアンカはラースの写し鏡のような存在なのだ。ビアンカを兄夫婦の家の、もともとラースの母の部屋であったところに泊まらせるのも、ラース自身がまだ母の呪縛から逃れえていないことの暗示であろう。
ラースは徹底して都合の悪いセリフを聞き流す。兄が「人形だ」とつい言ってしまっても、なにもなかったかのように人形との仮想的会話を楽しむ。ビアンカに「きれいだ」と言うラースを前に、兄夫婦は居心地の悪い苦い表情を浮かべる。ただし、人形との会話がある種のリハビリ的効果をラースにもたらしていることも示される。直後のシーン、会社の受付のシンディに「きれいだよ」という場面だ。以前のラースであれば、こうしたセリフが言えただろうか。
兄夫婦は教会にラースのことを相談しに行く。冒涜的行為だと憤る教会関係者もいるが、教会側はラースのため、ビアンカの存在を認めることにする。教会で奇異の目で見られながらも、ビアンカは新しいメンバーとして認められる。ビアンカは花をもらう。造花を。「これは造花だから永遠に枯れないよ」と言うラース。そう、ビアンカもまた、いつまでも枯れない理想的な花として存在しているのだ。
ところで、ラースはビアンカの世話を全くしない。寝かせるのも兄夫婦、着替えさせたり、風呂に入れるのも兄夫婦だ。ビアンカはラース自身を写す鏡なのであるから、ビアンカを世話しないことはラースが自立できていないことを示している。
病院で、ラースは義姉カリンのことを女医に相談する。「カリンは相手を抱きしめようとする」が、それを「拒絶されると傷ついたようになる」。だがラースは抱きしめられるのが嫌なのだ。「抱きしめられると痛い、ビリビリする」と言うラース。ラースは他者から身体的に接触されることへの拒否反応を示してしまう。ただ、ビアンカだけは別だと言う。ビアンカは自分自身なのだから、これは当然だ。他者との接触を極度に拒絶してしまうのは、母を失ったことにより、他者を傷つけたくないという意識が強く働いてしまうからだろう。傷つけたくないし、傷つきたくもないのだ。
ラースはずっと、会社の同僚マーゴが気になっている。映画の始めからずっと、彼がマーゴを意識していることは明らかだ。けれども、うまく接することが出来ない。ある時、ラースはマーゴが同僚の男性と仲良くしている様子を見てしまう。その日の夕方、(教会関係者の計らいで)ビアンカは病院でのボランティアに行くのだが、そのことを知らなかったラースは、ビアンカとケンカ(実際には一方的にどなりつけるだけなのだが)してしまう。教会関係者は、「ビアンカにも人生はあるのよ」と言い、わがままを言うラースに「Big Baby!」と非難する。ここから、ビアンカはただのラースの写し鏡という存在から、次第に他者化していく。思い通りにならないマーゴや、ビアンカが自分だけのものでなくなっていくことを契機として、閉じていた自分が、自分の思い通りにならない他者と対峙することを余儀なくされる。憂さばらし的に、庭で怒鳴り散らしながら薪割りをするラースは、「みんな自分勝手だ」と言う。彼に向かって、義姉カリンは、「みんなあなたのことを愛してる。勝手なこと言わないで」と初めて激しく怒りをラースにぶつける。
その夜、ラースは、ビアンカを初めて自分で寝かせる。「これからは僕が寝かせる」「兄さん、ありがとう。世話になってる」。
ビアンカが他者化していくことは、次の病院のシーンではっきりする。ラースは女医に、(ビアンカに)「先週プロポーズしたんです」「返事はノー」と言う。もちろんこれは自作自演なのだが、ここにおいて、ラースは自分でビアンカとの決別の道を歩み始めている。それは自分を閉じた世界から解放するための儀式なのだ。
続いて、兄夫婦の家でラースは兄に言う。「彼女の国では成人になるための儀式のようなものがある」、それっていいよね、「いつ気づいた?自分が大人だって?」。兄は、大人は「不誠実に接しない」「愛する人を裏切らない」と言う。
さて、会社ではフィギュアオタクとケンカしたマーゴが、大事にしているテディベアをコードでグルグル巻きにされて「殺されて」しまう。マーゴの話を聞いてあげたラースはマーゴが恋人のエリックと別れたことを聞かされる。ラースはテディベアのコードをほどき、人工呼吸の真似事をしてテディベアを「生き返らせる」。
(この映画における、フィギュアオタクとマーゴのやりとりは非常に良いスパイスとなっている。ラースだけが特異な存在なのではない、ということを示唆し、むしろそうした非生物への慈しみの情こそが他者への寛容性を生むのではないかという希望さえ抱かせる(これは楽観的に過ぎる見方だろうか)。)
マーゴはラースをデートに誘う。ビアンカの用事があることを口に出すラースだが、結局ラースはデートの誘いに応じる。デートの終わり、ラースは言う。「誤解してほしくないんだ」「ビアンカを裏切ることは出来ない」「愛する人を裏切るなんて大人の男じゃないから」。兄から言われた「大人」であろうとするラース。別れ際、ラースはマーゴと握手をする。そこまでもう他者と接触できるようになっている。
病院のシーン。女医に対してラースは言う。「彼女(ビアンカ)は僕を愛しているけど」「ノーや分からないわ」と言ったり、「何も答えなかったり」する、と。ここでの、「何も答えなかったり」は、ほんとに何も答えていないのだろうと思う。他者と対峙し、人形であるビアンカのことも他者として、生きている存在として扱っていくとどうなるか。ビアンカのことを、人形を生きている存在と見なすように見るのではなく、生きている人間と等価に見ていく、そこまで他者化して見たとき、ビアンカは「何も答えない」。映画前半のシーンで、ビアンカの前に置かれた食事にも手を出していたラースだが、もし同じ場面があったなら、「どうして食べないの?食欲ないの?」とビアンカを心配したことだろう。そしてそれをさらにつきつめれば、ビアンカは、そもそも息をしていない。
ある朝、ラースは叫ぶ。「ビアンカが意識不明だ!」と。確かにそうだ。もちろん、はじめからそうだった。けれども、ラースはこの時点においてようやく、人形を完全に他者化したのだ。自分の都合の良い妄想を離れ、人形を人間扱いした結果、ビアンカは「意識不明」ということになった。これは正しい。
救急車で病院に運ばれるビアンカ。「ビアンカが重病」「死にそうだ」というラース。ビアンカ重病の知らせは街中を駆け巡った。それが何を意味するか、よく分からないままに。
ラースは家に戻り、そこでビアンカを看病をすることになる。夜、抱きあってよりそって寝るラースとビアンカ。はじめ、寝かせることすらしなかったビアンカとの密着度の圧倒的な違い。ビアンカを他者として愛している。
翌朝、ラースの家の玄関に見舞いがたくさん届いている。自分が愛されていることに改めて気づくラース。
兄夫婦と一緒に出かけ、ラースとビアンカは二人きりで湖を見る。ラースはなにごとかを決意したような表情になり、それから涙を流し、ビアンカにキスをする。それはビアンカとのお別れのキスだ。ビアンカは、ラースが他者として愛するがゆえに死ぬ。
教会でビアンカの葬式が行われる。「彼女は師でした」「我々の勇気を試す存在でした」。
墓の前で、ラースはマーゴに話す。「彼女みたいな人はいない」と。ラースは自分に都合よくビアンカを殺したのではない。愛しているがゆえに殺したのだ。ラースは彼女を捨てるのではなく、殺すことを選択した。捨てれば、また別の「美安価」を買えばよかっただろう。けれども、ラースはビアンカをかけがえのない、代替不可能なものとして愛した挙げ句、固有名詞「ビアンカ」として彼女を殺した。そのことによってラースは母の呪縛からも解放されるのだ。
「少し歩く?」とマーゴに話しかけるラースは凛々しい表情だ。この映画を、オタク的、自閉的、現実逃避世界から、社会性のある世界へと「戻ってくる」ための啓蒙的な映画だなどというまとめをしたくない。むしろ、不可能なものへの回路の希求こそがコミュニケーションの根本にあって、そこから全て始まるんじゃないか、という予感。他者関係と、対人形関係の、一体何が違って、何が同じなのか。例えばアニメへの耽溺、アイドルへの没入、そういったものが、もはや現実と虚構の二項対立などできようもないこの世界の中で、コミュニケーションやら他者やらといった「信じる」ということ抜きに成立しないようなものに切り込んでいく一つの道しるべたりえないだろうか、という淡い期待だ。