アイドル論はなぜ成り立ちづらいのか

ちまたでは、はてなにおけるハロヲタの存在みたいな話題もあるようですが、それとも絡む問題かも。
モーニング娘。学会で話題になったことは、アイドル論の成り立ちづらさ、である。僕はメディアに載るアイドル論でまともなものというのは宇多丸氏か、あとは中森明夫くらいしか思いつかない(もっと知ってる方、教えてください)。
アニメ・まんがに関する言説はあふれているのに対し、なぜアイドルに関する言説は少ないのか。印象論だが、はてなにおいても、アイドル論を書いているブロガーは少ないと思う。これはよく言われる、ハロヲタがブクマをしないからその存在が知られない、という話に終わるものではないだろうと思う。
また、もちろんアニメ・まんがに耽溺するオタクの数とアイドルヲタの数の比率のことも考えなくてはいけない。ただ、それにしてもちまたにあふれるアニメ・まんがに関する言説とアイドルに関する言説の量の差には、もっと決定的な質の問題がある気がする。
重要なことは、アイドルは語りづらい、ということにある。この問題を掘り下げて考えていきたい。
語るということは、その語る対象をある程度には客観的な相の下に置くということである。この客観性というやつと、アイドルがいかにも相性が悪い。
大前提として「アイドル現象が極めて主観的なものであるということ」を確認しておかなければならない。その上で、ではそれがどういうことなのか、分析していかなくては。
アニメ・まんがとの差異について前から話題になっていたことは、
①「アニメ・まんがは「作品」であるが、アイドルは「存在」がまぎれこむ」ということだ。
アニメ・まんがの「作品」は誰にでも同じように現れ、複製可能であるが、アイドルはそれが生身の人間の絡む現象である以上、複製しきれない、そして大多数の人間の目に触れない側面が存在する。写真集やDVDは作品と言えるし、それについて語ることはできるだろうが、生の握手会やライブは、そもそも数千人規模でしかないために、それを体験していない人と共通の認識の下で論を進めることができない。こうしたブログで語る時に、アニメ・まんがのほうであればようつべやらニコ動をリンクするとか、画像を貼るとかで対象を共有した上で語るという場の形成ができるが、アイドルはそうした複製できるもののみで成り立つ現象では、おそらくない。
①とも絡むが、
②「アイドルがリアルタイムで進む現象であるということ」
も外せない。アニメ・まんがが基本的にはその中で世界が完結していて、逆に言えば現実とのリンクがないものなので、昔の作品に今はまることもできるし、昔の作品と今の作品を比較することも問題なくできるのに対し、アイドルはそうはいかない。昔のアイドルに、今はまるということは、ほとんど不可能に近い。例えば今おニャン子の曲にはまる人がいたとして、それを「アイドルにはまる」という言い方ができるか甚だ疑問である。アイドル現象が、現実の、今と切り離せないものであること、これがアイドルにとって決定的に重要だと思われる。
③アイドルが「愛」という概念と絡むということ
これがアイドルの条件であるとは思わないが、アイドルを語りづらくさせている一因ではあろうと思う。これに関しては、話が長くなりそうだ。


以上3点、または補正して何点かについて考えながら、アイドル論の成り立ちづらさ、またどう成立させていけばよいのかをつきつめたい。