場のルールをどのように形成すべきなのか(1)

以前の「場のルールはどのように形成されるのか(3)」(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080807/1218128487)は、いろいろ思惑があって書いたものだが、内容としてはやはり不備があった。
神宮花火大会におけるベリキューヲタのはっちゃけぶりに関して、僕はヲタの立場から徹底してヲタの立場を擁護した。が、http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/nacci/ の8/13〜14で極めて正当に批判されているように、場のルールを運営者に委ねることによって理論的に責任転嫁を図ることであったり、ヲタ対一般という構図における非対称性を考えた時、実質上ヲタの居直りでしかありえないような言説を著してしまったことには問題があったと思う。とは言え、それであってもなおやはり、ヲタという立場から言葉を紡ぐ時、前回のエントリに意義はあったのだととりあえず言いたい気分もある。実際、僕はとりたてて断定口調で何かを言う気はなくて(←ところどころ断定しちゃってるのだが)、「どうしようもねえなあ」という絶望感を表明しただけ(のつもり)だったが、それが結局は「はろぶろ」さんのほうやら、ハートプロジェクト様のほうのアンケートにまでつながったのだから(→http://blog.heartproject.net/2008/08/2008_1.html)、生産性はあったのだろうと思う。少なくとも、僕はあの神宮花火が、ただ「よかった」で済まされるべきではないと考えた。なので内容的に挑発的な、ある程度批判・非難の予想されるエントリにしたという思惑もあって、その思惑はある程度果たされた。ただ、その正当な批判が、やっぱり僕を反省させもした。ヲタは、もっと能動的でなくてはいけないのではないか。
さて、議論の検討に入る。花火当日、ヲタ(自分)が親子の座る席の前だろうがお構いなしに立ち上がってライブを見てしまうということに関し、「禁止されていないからOK」とか、「運営者にルールを求める」というのはお門違いだ、という批判がなされた。これはもっともな批判だと僕も思い直した。ただ、ヲタはあの状態――つまり特に立ちが禁止されていないままライブが始まってしまった状態で、立たないということは現実的には不可能だ。そこで自然発生的な倫理の発生など望むべくもないということは、現場に参戦していたヲタには納得されることだろう。でもって、これは居直りではなくて、ただ現実として当然そうなるであろうという認識である。大事なことは、ここで、「みんな座りましょう」などという意見に「居直」ってはいけないんじゃないか、ということだ。それは安全な意見だが、多分現場を何も変えはしない。特攻服の、あの兄ちゃん(そしておそらく僕)を動かすことはできないだろう。ライブで立てない、というのは多くのベリキューヲタにとってライブの魅力を大幅に減退させるものだ。そこで「ではお前らはアイドルに不利益を与えてまで一般人の前で騒ぐのか、そんな者をファンと呼べるのか」というまっとうな問いがくるだろう。この問いに真摯に向き合うことこそがアイドルヲタの倫理なのかもしれない。実際、ヲタはその応援スタイルにおいて、はじめからアイドルを死に近接させているようなものだ。神宮花火大会では、ヲタの応援はアイドルに対して不利益を与えた。
で、先日のエントリで僕は、もう一度同じイベントがあっても同じようにするだろうという言明をしてしまったように思う。居直りがあるとするなら、ここが問題ではなかったか。つまり、そうした場が再びあったら、ヲタvs一般の対立は避けられない、だからヲタはせめて自分たちが楽しめるルールに従うだけだ、というあきらめ。そこからの脱出を試みない怠慢さこそ責められるべきことであったと思う。今は、この神宮花火に対して、ひとつのありうべき解決策、というか、能動的な働きかけを提案することができるのではないかと思う。
僕は、会場に行く前から、神宮花火が、「POP JAM状態」になることが分かっていた。一般とヲタが乖離する現場だと分かっていながら、それを僕は面白いと思って黙認、そして参与したのだった。当日現場が予想通りの場になったときに、ほら、と言わんばかりに没入したのだ。僕はいまもって、そういう状況になった時にヲタが祭り状態になることは否定できないと思うし、それをするな、というのには無理があると思う。ではどうすればいいかというと、当日そういう状態にならないように、前もってある程度ヲタの方針を統一しておく、という方策が考えられる。サイリウム祭を見れば分かるように、ヲタの行動を統一していくのは、実はそんなに難しくない。もちろんそれはヲタの倫理に沿う形でなければならないのだが、ヲタが納得する形でのルールを、イベント前までに醸成できればよいのだ。その話し合いの場がどこかにあることこそが決定的に重要であると思われる。だから、ハートプロジェクト様のように、主体的、能動的に動こうとしていることは非常に貴重だと思われるのだ。実際にはそれでも、一般との対立がないように、また、ヲタが満足できる妥協点をヲタ自身が追求していくことは難しいかもしれないが、それでも、全く無思考・無自覚なままで、アイドルに対して不利益を与えるよりはよっぽど前向きな姿勢であると思える。そうした話し合いがもしかしたら主催者を動かして、結局のところ全席立ち禁止になったらそれはそれで致し方ないし、あるエリアは立ち禁止みたいに明確に区分ができたら、それは喜ばしいことではないかと思う。繰り返し書くが、あらかじめのこうしたルールづけ――ヲタが醸成するにせよ、主催者が決めるにせよ――がない状態で、ヲタの個々の判断に任せるということには何の信用もおけない(自分も含めて)。そんなにヲタは人間ができちゃいないのだ。だからこそヲタのルールを巡る議論は難しい。


さて、きわめて難しい問題を自問したい。上記のような倫理の問題は、比較的利害関係が一致した層が観るライブにおいても起こりうる。おととし、ハロプロパーティで富山や奈良や豊田に行ったが、大体そういう会場の場合、地方でチケットがかなり出回っているので、その地方の家族連れが運悪く良席の位置を占めてしまったりする。で、ヲタの狂乱とステージの見えづらさとで、ライブの序盤でもう参ってしまって、ロビーに退避なんてのも目にしないではなかった。
ライブの良席でもし、自分の席の後ろが、明らかに自分が立ったら困るであろう親子だったらどうするか。僕は、そこで座って見るなどという、ほとんど偽善的とも思えるパフォーマンスをする気はやはりさらさらないだろうと思う。でもだからと言って、あらかじめ謝るなどという責任回避的なことができるだろうか、それだったら、むしろ居直る方がまだ倫理的な態度ではないかと思える。僕には今のところ、やっぱりその親子連れは運が悪かったね、以外の結論をひねり出せそうにない。ただ一方で、ライブ中にアイドルの口から、小さい女の子にも見えるように、みんなずっと座ってください、と言われたら座ってしまうかもしれない。要は、全く自分が開かれていない閉塞に陥っているわけでもないのだろうと思う。
この問題はかなり長く引っ張りそうだなあ。全然結論が出る気がしない。…続け。