リアリティとは何か

知らなくてよいもの、知らされないことによって希望があるということ。


神は何も信じない。知っているだけだ。
人は何かを信じる。知らないからだ。


対アイドル関係を、あまりにある固有のイメージのみに限定された関係に閉じて理解しようとし、それ以外の情報にアレルギー反応を起こすとアイドルである人間が苦しむ。これは一般の人間関係でも同じだ。
例えば小学校の教師が、家に帰って新妻とセックスしていることを学校の授業中に報告する必要はない。生徒や生徒の親が、たまたまラブホテルに入る教師を見かけたら、これは誰かが悪いんじゃないのだ。ただ全体としてまずい状況だ、と言えるだけだ。
基本的に人間関係はそういう風に成り立っている。公的にはある役割として存在する人間が、私的には全く別の顔を持っている。
ところが、我々はサービス業の現場において、役割としての「キャラ」を超えて、人格的であれ、という命を受けて労働に従事する。お客様の立場に立って、そのお客様が、ただ一人のかけがえのない他者として扱われているように感じるようにサービスせよ。そういう風に、労働の現場に「愛」を持ち込まなければならない、これを多分「感情労働」と呼ぶ。
そうした感情労働者は、特に社会から暗黙の規範を押し付けられ、道を外してはならない模範的な存在であれ、とされる。教育関係者・医療関係者などは最たるものであろう。逆に、だからこそそういったモチーフは、背徳の快楽として性産業に利用されることにもなるのだが。


マンガ・アニメの世界を考える。二次創作の現場では、原作の世界観、設定を生かしきれていないエロ同人誌があれば、そぐわないものとして売れないか、そういう趣味の人にだけ辛うじて売れることになるだろう。つまり嫌な人はそれを買わなければおしまいだ。そしてその買わない理由は、もちろんそれが初めから虚構であるがゆえに、ほんとうかほんとうでないか、ではなくて、真偽とは関係ないところでの「リアリティ」の問題である。これをアイドル現象に持ち込みたい。例えば雑誌にアイドルの現実的側面が載せられた時に、「信じる/信じない」ではなくて、それは「受け入れられない駄作」であるという感覚。そうすることで、アイドルの実存を守るという方策をとれるか。ただこれは、アイドルを作品化することで、逆にアイドルの実存を忘れてさせてしまうかもしれないという問題もあるが。


昨日のエントリでも取り上げたが、伊藤剛はメディアによる「リアリティ」に、2つの側面があるとする。「もっともらしさ」と「現前性」である。
もっともらしさ…「実際にありそうなこと」に感じさせる
現前性…「目の前で起きているように感じさせたり」、「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも『ある』かのように錯覚させること」
図で言えば、より「本質」に近づくほど、「リアル/非リアル」は「もっともらしさ」において判断されるだろう。「表層」に近づくほど、「現前性」によって「リアル/非リアル」が判断される、このように考えてよいかと思う。
重要なことは、とにかく「真偽(現実⇔虚構)」と「リアル/非リアル」の区別である。実際にあったことこそがリアルである、というように、「現実」を特権化することは危険である。例えばそれは、自分の知覚だけが「リアル」であると見なす安易さや、メタ化できない過激な描写(ケータイ小説に見られるような)こそ「リアル」であるとするような認識を生んでしまうだろう。それこそ、アイドルのスキャンダルなどが格好の材料とされてしまう。「現実」の皮を被った「虚構」に踊らされる、という皮肉な事態に陥ってしまうのだ。
リアリティを取り戻さなくてはならない。それは「もっともらしい」物語であるか、それともイベント現場におけるアイドルの現前性であるか。いずれにしても、ヲタの主体性が問われている。我々がどのように物語を紡ぐか、我々がイベント現場でのアイドルの笑顔を信じられるか。そこにアイドルの「リアル」が生まれることだろう。
我々は不完全であるがゆえにアイドルを信じる。それは「愛」と呼べるだろうか。