「キャラ」「キャラクター」概念の峻別

伊藤剛はアニメにおける「キャラ」と「キャラクター」概念を区別する。
「キャラ」…多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの
「キャラクター」…「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの
この概念をアイドルへ、ひいては実際の人間のコミュニケーションにも利用することはできるだろう(現に「キャラ化するニッポン」(相原博之著)でもその試みはなされている)。現代では「キャラ」は日常語になっていて、それは人間関係の中で、互いを差異化づけるための記号である。記号であるが、その内実はほとんどない。職場の中の役職であったり、「いじられキャラ」のように、表層的な関係の中で差異化づけるためのものである。それが、「キャラクター」になると、より人格的、「『人生』や『生活』」への想像をさせるものとなる。これは個人間の私的な関係性になったときに立ち現れる。単純に言えば、「キャラ」は役職やニックネーム、「キャラクター」は実名ということとして理解すればよいが、問題は実名があまりに遍在しすぎるということだ。特に有名人と言われる人々は、「キャラ」であるべき時にも実名が流布し、メディア上にあふれるという事態は重過ぎる。大リーグのイチローが、早い時期からニックネームを登録名としたことには、それなりの戦略性を感じるのである。
同様に、アイドルの実存を守るために、「キャラ」と「キャラクター」を峻別すること。できれば、アイドルは芸名(ニックネーム)で活動してほしいと思うのである。
これに関して、「松田聖子中森明菜」(中川右介著)が参考になる。実際に読んでないので孫引きする(参考:http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20080615/seiko)。
『蒲池法子が「松田聖子」とのあいだに常に距離を持てたのは、本名とはまったく違う芸名を持っていたからだった。彼女は本名と芸名を使いわけ、松田聖子を演じきっていた。そして、蒲池法子が演じている芸能人・松田聖子が、さらにアイドル松田聖子を演じていた。そういう二重・三重の構造にあったために、松田聖子は数限りないスキャンダルを受けても耐えられた。(略)しかし、本名を芸名とした中森明菜には逃げる場がなかった。それが、後に大きな不幸を招くのである。』
『(1988年の段階で)中森明菜は虚構と実人生のバランスがとれなくなった。不幸や孤独はあくまで歌の中での話のはずだったのに、繰り返しているうちに、実人生にもそれが侵入し、彼女は混乱した。』
加護亜依を襲った事態というのは、おおよそこれと同じようなものだったのではないかと僕は思う。
アイドルが「アイドル現象の総体」と「アイドルである自分」をしっかりと峻別すること、またヲタの側でもそうした認識をしていくこと。難しいことだけれども、「キャラ」「キャラクター」概念の峻別をヒントに、僕らは対アイドル関係を構築していかなくてはいけないのではないかと思う。